著者インタビュー
西村書店より、マルタ・ユストス文/ディエゴ・ロドリゲス・ロブレド絵『カラー図鑑 フェミナ・サピエンス全史 人類の進化と女性の祖先』(篠田謙一監修/網野真木子訳)が上梓された。女性に焦点をあて人類の進化をみる本書の刊行を機に、監修者の篠田謙一さん(国立科学博物館館長)にお話を伺った。(編集部)
――最初に、篠田さんのご専門と国立科学博物館館長としてのお仕事についてお伺いします。
篠田 私の専門は人類学です。中でも分子人類学という、古い骨からDNAを採取し、その分析によって人類の起源を考える分野を研究しています。日本やその周辺の国々、そしてペルーなどで遺跡の発掘調査に携わってきました。
国立科学博物館館長に私が着任したのは、二〇二一年です。最も大変だったのは、やはり館の運営です。博物館の重要な役割は、研究標本を集めて保管し、次世代に継承していくことです。しかし、その根幹となる活動が運営費の不足から難しくなり、二〇二三年にはクラウドファンディングをするまで追い詰められました。財政的に健全な博物館運営のための仕組みづくりを、今後も考えていく必要があります。
――本書は人類史を女性の化石人類でたどるビジュアル図鑑で、『フェミナ・サピエンス』というタイトルが大変印象的です。監修にあたり、意識していたことはありますか。
篠田 「フェミナ・サピエンス」とは、女性のホモ・サピエンスに注目するために著者たちが考えた造語です。おそらく彼女たちは、女性の骨を中心に人類史を語るという新しい試みを記した本書のタイトルは、新しい言葉であるべきだと考えたのではないでしょうか。
監修にあたっては、科学的な正確性は常に大切にしていました。絵本という特性上、イラストが主体なので、文章で説明できる情報は限られています。それでも、内容が科学的にみて正確かどうかは意識しました。「カラー図鑑」と題されているように、本書は通常の絵本と比べても、1ページの情報量がかなり多い。次々にページをめくって読んでいくよりは、アトラクティブなイラストを手がかりに、親と子どもが一緒になって、古代の女性たちの世界をひとつずつ知っていく読み方が合っていると思います。
――冒頭には、篠田さんの監修のことばが置かれています。中でも驚いたのは、「進化の道筋を考えるときに使われた化石のほとんどは男のものでした」という指摘です。言われてみればその通りですが、今まで意識したことのない視点でした。
篠田 本書では、女性の化石や古代DNAの研究から、彼女たちがどのような生活を送っていたのかに焦点が当てられています。どちらか一方の性別だけで考えるのは偏った見方ではあるけれど、これまでの人類史は世界的に、男性の骨をもとに語られてきた背景がある。それだけでなく、この分野の研究では、いたるところに男性の視点が反映されてきました。古い人骨は性別が断定できないものも多いのですが、研究者と同じ男性のものと判断されるものも多かったと感じています。結果的に進化の過程を考える際は自然と、男性中心になっていました。
実は本書を読むまで、私も人類史が男性の標本中心で考えられてきたことをあまり意識していなかったんです。今年の3月~6月にかけて、科博では特別展「古代DNA」を開催していました。日本人の歩みを古代の人骨に語らせるというコンセプトだったのですが、当初リストアップした人骨や標本は、ほぼ男性のものでした。準備期間が本書の監修を担当していた時期と重なっていたこともあり、自分の無意識のジェンダーバイアスに気づかされました。特別展では、意識してバランスを取りました。
これまで人類の進化の要因として、肉食化や狩猟の開始などが挙げられることが多かったのですが、これはあくまで男性の視点で考えた進化の話です。でもこれは、人類の歴史の半分でしかない。もう半分──女性たちが何を考え、どんな暮らしをしていたのか知らなければ、人類の歩みの全体像を捉えることはできません。本書はその手掛かりとなる視点を与えてくれます。
――本書では、各時代の人類と共生していた動物たちの姿も描かれています。
篠田 博物館は、頭で理解していた存在を実感できる場ですが、本書はそうした体験に近づける工夫――暮らしや文化、共生していた動物たちを描くことで、当時の女性たちの生き様を浮かび上がらせている。時代が異なる動物を同じページに描かないなど、科学的な正しさにも配慮がされています。
とはいえ、科学的に「正しい」とされていることでも、研究の進展によって日々更新されます。たとえば、ネアンデルタール人の頭骨が初めて発見されたのは1856年です。見たことのない特徴を持つ人骨に対し、当時は「ある種の病気に罹患した人の骨なのではないか」という説もありました。もし、この意見が主流になっていたら、その時点で骨も破棄されていたかもしれません。しかし、過去の科学者たちはその人骨を保管し、研究していった。そして発見から140年経ち、DNA分析が可能になった今では、ネアンデルタール人の遺伝子が我々の中にも存在していることが明らかになっています。
技術の進歩や新たな発見により、かつては想像もできなかった世界のことが次第に読み解けるようになってきています。現代社会は袋小路のように思えるけれど、何万年も前の人類の価値観を知ると、今とはまったく違う世界の在り方を想像することができます。もちろん根拠がなければただの妄想ですが、研究標本という〝もの〟があることで、数万年前の世界と現在の結びつきを科学的に分析できる。だからこそ、博物館は研究標本という「考えるための材料」を集め、保管する必要があるのです。科学的な知識の蓄積が、本書のような作品にも繫がっています。
――最後に、科博で現在開催されている特別展「氷河期展」の見どころをお尋ねします。
篠田 「氷河期展」では、本書にも登場するネアンデルタール人とクロマニョン人の頭骨が、日本で初めて公開されます。また、マンモスなどの動物たちも当時のサイズで復元展示しています。実物大の動物を前にすると、石槍だけで狩るのは相当困難だったと感じるでしょう。でも彼らはそれを成し遂げた。おそらく落とし穴やワナ、あるいは獲物を崖から落としたりして巨大な動物を狩猟していた。氷河期に生きた人たちは地形や動物の行動を把握する知識や技術を持っていたはずで、その点では、私たちとさほど変わらない知性があった。にもかかわらず、なぜネアンデルタール人は滅び、私たちホモ・サピエンスの仲間であるクロマニョン人は生き残ったのか。これは、人類史上最大の謎のひとつです。展示を通して皆さんにもぜひ、この謎解きに挑戦してもらいたいと思います。
私たちは、目の前にある社会だけで人間を捉えがちです。けれど、その背後には、とてつもなく長い歴史を抱えている。「氷河期展」や本書で、過酷な環境を生き抜き、命を繫いできた人類の歩みを知ると、世界の見え方も変わってくるでしょう。これからの時代を生きるうえで、その視点はとても大切になるはずです。(おわり)
★しのだ・けんいち=国立科学博物館館長・分子人類学。著書に『人類の起源』『科博と科学』など。1955年生。
書籍
書籍名 | カラー図鑑 フェミナ・サピエンス全史 |
ISBN13 | 9784867060575 |
ISBN10 | 4867060577 |