有名人の死に心がゆらいだら
髙橋 あすみ・大井 瞳著
中森 弘樹
かつて一世を風靡した有名人の名前が、SNSやニュースサイトのトレンドワードに上がってくる。一抹の不安とともにニュースを見たら、その人物の訃報に触れて、思わぬショックを受けてしまう――このような経験をしたことがある者は、評者だけではないだろう。特に、以前から故人のファンであったり、現在進行系で「推し」ていた場合、その喪失体験は、周囲から理解されないほど深刻なものとなる恐れがある。とはいえ、テレビやインターネットのニュースのみならず、SNSからも波のように情報が流れてくる現代社会にあっては、訃報を知らないままでいることもまた難しい。
こうした有名人の死からくる悲しみに、寄り添ってくれるのが本書である。「ウェルテル効果」をはじめ、有名人の死のメディア報道が社会に与える影響は、古くから研究の対象となってきた。けれども、髙橋あすみと大井瞳という二人の若き気鋭の心理学者が、着想から五年もの歳月をかけて書き上げた本書には、幅広い読者層にリーチするための工夫が随所に施されている。
まず、本書では、有名人の訃報に接した人の心に何が起こるのか、という疑問に応えるための心理学の専門知が、非常に平易な言葉で解説されている。特に、議論のコアとなっているのは、「パラソーシャル関係」の概念だろう。ファンや視聴者、SNSのフォロワーなどが有名人と築く関係を、パラソーシャル(準-社会的)なものとして位置付けることで、有名人を失うという経験も、従来の様々な悲嘆やグリーフケアの枠組みで捉えることが可能になるからだ。なかでも示唆的だったのは、ポーリン・ボスが考案した「あいまいな喪失」の概念を導入している点である。従来は、行方不明者や認知症患者を抱える家族の喪失経験を分析するために用いられてきた同概念だが、有名人の死も、間近ではっきりと経験できないという点で、たしかに「あいまいな喪失」の一種だといえそうだ。
また、有名人の死に心がゆらいだ際に、どのような対処法がありうるのかについても、丁寧かつ実践的な解説が行われている。著者らは、亡くなった有名人との関係やシチュエーションに応じた、様々なセルフケアの方法や相談先の選択肢を、読者に提示する。ここには、「悲しみにルールや基準はない」(一一四頁)、「「こうしたらいい」より「こうしてもいい」」(九五頁)という著者らのスタンスを見てとることができよう。また、近年の「推し活」カルチャーの主要な担い手である、若い世代の「ファン」を想定した記述にも多くの紙幅が割かれている。興味深いのは、髙橋と大井の二人が、互いの「推し」へのスタンスをテーマとした対談が、途中に収録されている点だ。対談のなかで、二人の有名人への接し方は狭義の意味での「推し活」ではないことが分かってくるのだが、それも含めて本書は読者に対して「誠実」であると評者は感じた。
そして、本書が、特に自殺への対策に重きを置いている点にも言及しておこう。有名人の自死の報道は、有名人に対する「社会的学習」や「同一化」によって、視聴者の自殺行動を誘発する恐れがある。この点を踏まえると、本書が、有名人の自死についての報道のあるべき姿のみならず、そもそもの自死の背景にある有名人のメンタルヘルスの問題にも目を向けるのは、ごく自然な展開といえよう。とはいえ、有名人にかぎらず、人が自死へと至る経路は複合的で、その原因が一意に定まることはない。「個人としてできるのは、その死の真相を確かめ明らかにしたいという自分自身の気持ちを受け止めながらも、その死の背景を単純化して理解しようとしないこと、分からないことがある、と捉えていくこと」(一八一頁)であるという著者らの提言は、有名人の死が誹謗中傷の連鎖を生み、さらなる悲劇を招くことのないよう、誰もが意識すべき事柄だといえる。
それにしても、本書を読んで改めて気付かされるのは、有名人の死という出来事の不思議さである。上述の対談で著者らも触れているように、有名人の死は、ときに熱心なファンだけでなく、それ以外の多くの人々にも強い動揺や喪失感をもたらすからだ。リアルな対人関係の論理だけでは捉えきれない、パラソーシャル関係の性質のいっそうの解明は、社会学徒の末端である評者にとっても重要な宿題となりそうだ。こうした思考を触発するという点でも、本書には一読の価値があると、最後に付け加えておきたい。(なかもり・ひろき=立教大学文学部社会デザイン研究科准教授・社会学)
★たかはし・あすみ=臨床心理士・公認心理師・北星学園大学社会福祉学部心理学科専任講師・自殺予防。著書に『大学における自殺予防対策』など。一九九二年生。
★おおい・ひとみ=臨床心理士・公認心理師・人間環境大学総合心理学部講師・悲嘆・睡眠障害・認知行動療法。共著に『対人援助職に知ってほしい睡眠の基礎知識』など。一九九二年生。