写真師 島隆
蓑﨑 昭子著
飯沢 耕太郎
幕末・明治初期の写真研究家の島霞国が、かぼちゃと扇子を手にして笑っている写真を初めて見たときには、驚きとともに、思わず笑いが込み上げてきた。
見れば見るほど奇妙な写真である。右手にかぼちゃ、左手に扇子という組み合わせが、なぜ、どのようにして選ばれたのか、まずそれが謎だし、霞国が大口を開け、歯を見せて笑っているというのも、当時としてはほぼ考えられない。というのは、彼が研究していた、ガラスのネガを使う湿板写真術は露光時間が長く、少なくとも数十秒から数分はかかったはずで、霞谷はその間ずっと笑顔をキープしたままでいたということだからだ。おそらく、彼は自分の笑い顔を写真として残したかったのだろう。つまりこの写真は、当時はむずかしかった瞬間の表情を固定するための、ある種の人体実験として撮影されたものだったのではないだろうか。
しかも、もう一つ重要なことがある。島霞谷自身が写っているということは、誰か別の人物が撮影したということになる。霞谷の写真術研究を補佐し、彼が被写体になるときには撮影者の役目を果たした人物、それこそが、霞谷の妻の島隆だった。一九八六年に、群馬県桐生市の島家の土蔵から、霞谷と隆が残したおびただしい写真及び西洋画関係の資料が発見され、その調査が進展するにつれて、少しずつ彼らの活動の全貌が明らかになってきた。そこで見えてきたのは、四歳年上で、一橋家の祐筆(秘書)を務めたという隆の知力と行動力が、霞谷の写真術研究の大きな力になったということだった。
霞谷の残した写真には、隆がモデルとして写っているものが多数ある。白いシャツに袴姿、蝙蝠傘を肩にかけるように持つ、誇らしげな表情のポートレートも残っていて、そこには写真を撮ること、撮られることを、二人が楽しみつつ共有していたことが伝わってくる。それだけではない。先に述べたように、霞谷をモデルとして隆が撮影した写真もあって、そのうちの一枚の裏面には、「元治元甲子年春 島霞谷肖像 三十八歳 写真師 島隆」と記されているのだ。この署名がいつ頃のものかははっきりしないのだが、少なくともそれを書いた時点では、隆は自分自身を「写真師」と位置づけていたということだろう。さまざまな事績を総合すれば、島隆が日本における「女性写真師第一号」であったことは、ほぼ間違いないように思える。
蓑﨑昭子の『写真師 島隆 日本初の女性フォトグラファー』は、その島隆の生涯を、長年にわたる調査・研究の成果を踏まえて跡づけた労作である。まさに「キャリアウーマンの元祖」ともいうべき隆の全体像が、豊富な資料と綿密な調査によっていきいきと浮かび上がってきた。幕末・明治初期の草創期の写真術研究の流れにおいては、どうしても島霞谷の業績がクローズアップされることが多く、隆はどちらかといえば脇役的な存在と見られがちだった。本書によって新たな光が投じられ、隆の果たした役割の大きさにスポットが当たったことの意義はとても大きい。
ただ、写真、西洋画、活字製作など、多方面にわたる活動を展開した霞谷が、一八七〇(明治三)年に四十三歳で亡くなったあと、隆が故郷の桐生に戻ってからどのように過ごしたのかは、資料が散逸していてよくわからないことが多い。一説によれば、桐生で写真館を経営していた時期もあったというのだが、残念なことに、その時期に撮影された写真は残っていないので、隆の後半生は謎に包まれている。そのあたりの解明には、さらなる調査・研究の進展が必要になるだろう。
もう一つ大事な課題は、隆が創始者となった「女性写真家」の系譜を、現在まで辿り直していくことである。本書にも多少は触れられているが、まだ点と点とを繫ぐような段階であり、大きく太い流れは明確には見えてきていない。むろん、そのことで本書の価値が損なわれるわけではなく、その第一歩としては、間違いなく、確かな足跡を記したといえるだろう。(いいざわ・こうたろう=写真評論家)
★みのさき・あきこ=フリー物書き・編集業。元桐生タイムス記者。著書に『祈りの手技』『ノコギリ屋根の風景』、共編著に『安吾と桐生』『安吾の上州・桐生作品集』など。
書籍
書籍名 | 写真師 島隆 |
ISBN13 | 9784774408644 |
ISBN10 | 4774408646 |