追悼=香山二三郎
藤田 香織
一九五五年生まれの香山さんより、自分がどれくらい年下なのか、長い間知らずにいた。
「香山二三郎」という名前を意識したのは「本の雑誌」の「新刊めったくたリレーガイド」がきっかけで、そのとき私はまだ中学生だった。
転勤族だった父の都合で引っ越した甲府の方言がまったく理解できず、休み時間は図書館に逃げ込んでいた小学生六年生のときに「本の雑誌」に出会い、世の中には面白そうな本がこんなにあるのか!と大袈裟でなく目の前がパアーッと開けた。子どもが気軽に入れる古本屋などなく、情報を集めるインターネットもなく、駅近の大型新刊書店は遠く、近所の「本屋さん」にはほぼ雑誌しか置かれていなかった。面白い本が読みたいと思っていても、自分の周囲には、そんな話をする相手もいなかった。
そこに、執筆陣がワイワイガヤガヤこの本がいいぞ! でもここは残念だ! 飯だ! 酒だ! バーローバーロー! と叫び合う「本の雑誌」と出会ったわけで、それはもう興奮と感動でしかなく、ここは桃源郷(覚えたてだった!)かな、と思い憧れた。
その楽しそうな大人たちのなかに香山さんがいた。
「新刊めったくたリレーガイド」は、北上次郎→香山二三郎→菊池仁の三氏が、恋愛、時代、推理、冒険、歴史時代、翻訳などジャンル不問で新刊を紹介していく形式で、そこからざっくり個々の得意ジャンル分けされた「新刊めったくたガイド」へと変化し、その頃から「香山二三郎」のページをより楽しみに読むようになったと記憶している。
端的にいって、香山さんの文章は読みやすかった。突然の雷で「小生、チビリました」とか「友人と競争でAVを見狂った」といった意外とビロウな身辺報告を交えながら、ミステリーだけでなく、がっつりと重い戦争本や告発系ノンフィクションも取り上げていた。色白(と本人が記していた)で、恋愛経験が少なく(とリードで書かれていたりした)、穏やかで(文章からして温和だった)、落ち着いた(勝手な想像)人だとイメージしていた。
それから約二十年の歳月が過ぎ、自分も書評家と名乗れるようになり、初めて会ったリアル香山さんは、まさしくそのままの印象だったけれど、失礼ながら想像していたよりも若くて驚いたことをよく覚えている。自分が十代前半の頃から憧れの雑誌で活躍し、「香山二三郎」という筆名で一人称が「小生」な香山さんは、私とひと回りしか違わなかったのだ。
十三歳で読んだ書評は香山さんが二十六歳の時に書いたもので、初めて一緒にアイドルのコンサートに同行させてもらった時は、アラフィフだった。拙著『東海道でしょう!』では、大半の道程を「健康のために」と自費で参加してくれて、面白味の欠片もない国道や、史跡旧跡だらけの旧東海道を長い時間共に歩いた。苦行のような道程の中で「香山さんはAKBとハロプロ全部含めて結局誰がいちばん好きなの?」としょうもない質問をして、悩み抜いて応えてくれたのに「あ、センター好きってこと?」と身も蓋もない受け答えをした私に、珍しく「違うよ!」と声を荒げた香山さんは還暦前だったし、還暦のお祝いパーティで赤いちゃんちゃんこを羽織られた写真も手元にある。
今年七月。荻窪の中華料理店で香山さんとは大学時代からの友人でもある三橋曉さん、元「本の雑誌」編集者だった吉田伸子さんと四人で食事をした。以前より、背中を丸めて言葉を詰まらせながらも食欲は旺盛で、餃子に箸を伸ばす香山さんに「秋になったら鮎を食べに行きましょう!」と誘ったら「鮎~?」と気乗りしなさそうな声が返ってきた。本もアイドルもお酒も香山さんの「好きなもの」の話は沢山聞いてきたけれど、嫌いなものの話をされた記憶がない。楽しそうで、楽しかった記憶ばかりが残っている。(ふじた・かをり=書評家)
かやま・ふみろう氏=コラムニスト。二〇二五年九月一八日、死去。六九歳。
一九五五年生。早稲田大学法学部卒業。書評を中心にミステリー評論で活躍。宝島社の「このミステリーがすごい!」大賞では、第一回から第二四回まで、二〇年以上にわたり選考委員を務めた。著書に『日本ミステリー最前線』、編著に『一瞬の人生 「仕掛けと謎」の楽しみ 短篇ミステリー・コレクション』など。
