百人一瞬
小林康夫
第55回 坂部恵(一九三六―二〇〇九)
ハンドブックといいながらなんと総頁数八一四頁の大著。オックスフォード大学出版刊行の『The Oxford Handbook of JAPANESE PHILOSOPHY』(二〇二〇年)。編者のブレッド・W・ディヴィスさんの長い序文に続いて、最初が本連載第22回登場のトマス・カスリスさんによる聖徳太子の「十七条憲法」論からはじまって、歴史を追いながら、第Ⅳ部MODERN JAPANESE PHILOSOPHYに至ると、前半が「京都学派」、後半が「他の近代日本哲学」となっていて、その後半最後を締めるのがわたしの論考(第Ⅴ部もあるが、そちらは通史的な切り口の部)。
すなわち、日本の哲学の――「現在地」ではなく――今後、「古典」として登録され、残されるべき最新の成果について書くという使命が降ってきたのだった。どうするか、誰を取り上げるべきか、迷い悩まなかったわけではない。
その挙句、「京都学派」に対抗して「東京」、いや、いっそ「(東大)駒場」を日本哲学の「歴史」に登録してしまおうという思いが湧き上がってきた。「学派」ではない。ただ「駒場」という中心から少し外れた「知の庭」で、いくつかの哲学的思考の「弦」が振動し、まるで四重奏のように共鳴して響くということがあったと証言しておきたかった。わたしの論考のタイトルは、The Komaba Quartet : A Landscape of Japa―nese Philosophy in the 1970s となった。
四重奏というのだから四人。取り上げたのは、井上忠(「イデアイ」)、大森荘蔵(「立ち現れ」)、廣松渉(「事的世界観」)、坂部恵(「あわい」)。全員、東大駒場で教鞭をとっていた先生たち。だが、最初の三人は、たとえ一学期だけでも講義を受けているのだが、坂部先生の授業は一度も受けたことがなかった(先生は駒場で四年教えたあとすぐに東大・本郷へ移られた)。だが、いま、この原稿を書くわたしが思うのは、とても無謀なこの論考をあえて書いてしまったのは、なによりも坂部先生への遅れてきた「応答」であったかもしれない、と。
で、今度は総頁数七〇〇頁の『フランス哲学・思想事典』(弘文堂)を取り出す。坂部先生を含む四名の編集委員のなかに、わたしの名がある。その「20世紀(Ⅱ)」の総論もわたしが書いている。
フランス留学時代に、リオタール(第51回)やデリダなどに師事しているとはいえ、哲学科出身でもなく、直接に存じあげてもいなかったわたしを、坂部先生が抜擢して編集委員という大役を振ってくれた。それは、わたしにとっては、日本で哲学をやっていく「免許」が出たような出来事だった。
学会での発表論文などではなく、依頼に応じて雑誌などに書き散らしただけのわたしのテクストを、それでも読んで評価してくれる人がいるのだ!……以後、わたしは、「どこかで誰かが読んでくれる」ことを信じられるようになった
坂部先生とは、その後、国内だけではなく、ミラノのプラダ財団あるいはベルリンの日独センターでの国際哲学シンポジウムにお招きして、何度も日本哲学についての講演をお願いした。ミラノからの帰途にはヴェネチアのわたしの友人宅での茶会にもお誘いした(これについては、『坂部恵集』第2巻(岩波書店)月報に拙文がある)。不思議なご縁である。
今回、わたしが言いたいのはただひとつ、どちらも大部の日本語の事典と英語の事典のあいだに、時を隔てて、パーソナルな、あくまでもパーソナルなクロスオーヴァーがあったということ。(こばやし・やすお=哲学者・東京大学名誉教授・表象文化論)