地経学とは何か
鈴木 一人著
片岡 剛士
地経学という言葉をしばしば目にするようになった。本書は著者による連続セミナーをまとめたものである。内容は、地経学と経済安全保障の概念整理(序章)を行った上で、半導体(第一章)、ITやAI(第二章)、宇宙開発(第三章)といった現代を特徴づける技術的変化から始まり、各国対立の根本要因の一つである資源・環境問題(第四章)、様々な紛争で抑止策として用いられている経済制裁(第五章)、トランプ政権の経済政策(終章)、という流れで多様なテーマが取り上げられている。これらは経済的特性ないし措置が国際関係に重大な影響を及ぼしうる例である。本書では、こうした事象を統一的に考える枠組みとして地経学の概念が援用されている。個々の分野を深く理解したいと考える読者はもちろん、全ての事象を統一的かつ広い目線で理解したい読者にも有用な書籍といえるだろう。
さて「地政学」とは国家の地理的位置づけから国家の行動や国家間の関係性を考察する概念だが、「地経学」というのは、国家がそれぞれ有する経済的資源を基礎に国際秩序における各国の役割を考察する概念だ。また地経学が考察する経済的資源は、各国が有する天然資源や技術力・経済力・企業の経営力・政府の政策立案能力など多岐にわたる。
さらに地経学の視点が求められるようになったのは、世界経済を取り巻く環境が大きく変化していることが関係している。つまりグローバル化が進む事でヒト・モノ・カネを取り巻く相互依存性が強化されたものの、そのことで世界が一つに統合されるのではなく、むしろ各国間の分断・対立が可視化されているという事実である。そして分断・対立に自国の経済的資源で対抗する試みが経済安全保障である。その際、自国の経済的資源を特徴づける概念として「戦略的自律性」と「戦略的不可欠性」という二つのキーワードが有用である。
戦略的自律性というのは、自国が他国への依存度を減らすことで、他国が依存状態をテコに圧力をかけてくるのを防ぐという意味合いがある。例えば日本を含む各国は中国が産出するレアアースに依存している。中国のレアアース禁輸という経済措置の圧力を回避するには、日本を含む各国は中国からのレアアース依存を減らすべく戦略的自律性を高める行動をとる事が必要となる。また戦略的不可欠性というのは、自国がグローバルサプライチェーンにおいて不可欠な存在になることで、他国からの圧力を抑制することを指す。日本がサプライチェーン上で有する様々な強みは、中国におけるレアアースのように他国からの圧力を抑制し、併せて他国に圧力を及ぼす手段ともなる。
現代は政治と経済が分離する相互不干渉の時代ではなく、政治と経済が相互に関係することで、政治的圧力の手段として経済措置の重要性が意識される時代である。戦略的自律性や戦略的不可欠性といった自国の特徴は政府の安全保障上重要だが、これを実現するのは企業による経済活動だ。政府による経済政策の有効性を様々な観点から考察するのは伝統的な経済学が範疇としている領域だが、経済的安全保障の手段としての経済政策を考えるにあたっては、経済理論に基づく経済的合理性の理解も必須だろう。
本書が指摘するとおり、トランプ大統領が現在進める関税政策は世界第一位の経済力を持つ米国という「市場の引力」を背景に、米国のサプライチェーンを改変し、台頭する中国の圧力を抑制して「強いアメリカ」を取り戻すための政策だ。これは米国の戦略的自律性を高める試みだが、自由貿易に基づく国際秩序の番人であった米国の信頼を毀損させるという大きな代償を伴う。また経済理論の知見からは関税政策により米国が「強いアメリカ」を取り戻す可能性は低い。他方で中国も安泰とはいえない。住宅バブル崩壊の後遺症は内需の停滞とインフレ率の低下という形で作用し、余剰生産力は輸出増という形でアジア地域の過当競争の一因としても作用している。世界経済の中軸である米国と中国が政治・経済両面で互いに争う時代、両国が国際秩序に貢献する意思を持たない時代が意味するものは世界の多極化である。地経学の思考枠組みはこうした世界で日本がどう行動すれば良いかの知見も提供してくれる。より深く考察するためのきっかけとしても本書は読者に対し良い題材を提供するだろう。(かたおか・ごうし=PwCコンサルティング合同会社・上席執行役員・チーフエコノミスト)
★すずき・かずと=東京大学公共政策大学院教授・地経学研究所所長・国際政治経済学・科学技術政策論。著書に『宇宙開発と国際政治』(第三四回サントリー学芸賞)など。一九七〇年生。
書籍
| 書籍名 | 地経学とは何か |
| ISBN13 | 9784106039348 |
| ISBN10 | 4106039346 |
