- ジャンル:著者、訳者から読者へ
- 著者/編者: 山中恒
- 評者: 山中恒
著者から読者へ
増補版 戦時下の絵本と教育勅語
新装版 山中恒と読む修身教科書
山中 恒
戦後八〇年を迎えたことを機に、拙著『山中恒と読む修身教科書』(以下『修身教科書』)を新装版、『戦時下の絵本と教育勅語』(以下『絵本と』)を増補版として、それぞれ刊行することになりました。『絵本と』の初版は二〇一七年の刊行ですが、この頃というのは、文部科学大臣が教育勅語を教材として用いることを容認するような発言をし、また私立の幼稚園で教育勅語を朗唱させている映像も流れてきました。教育勅語がクローズアップされ、まさに復古主義的な機運が高まっていた時期だったのです。そういったことに対する反発から『絵本と』を作りました。なお、『修身教科書』の初版はその二年後の刊行です。
私は、満洲事変が起きた一九三一年の生まれですから、修身教科書を使った当時の学校教育によって教育勅語を叩きこまれました。一九四一年、国民学校令の勅令により、当時、私の通っていた平塚市の平塚第二尋常小学校は、平塚第二国民学校となりました。これが意味するのは、初等公教育も総力戦体制に即応することです。これにより教科書も全面的に改訂され、このときから国民学校修身教科書を使うようになりました。その時、私は国民学校初等科四年生でした。
修身教科書『初等科修身 一~四』は三年生から六年生で使います。一、二年生は『ヨイコドモ 上下』を使い、年代に合わせて教育勅語の精神をかみくだいて教えるのです。そして中学生になると、『中等修身一』で教育勅語の元である軍人勅諭を習うようになります。教科書は自分たちで買わなければいけなかったのですが、結構高くて、買うのに苦労した人もいたほどです。だから、みんな兄や姉から譲ってもらっていたんですよ。
尋常小学校から国民学校になったときの一番の変化は、先生が急に厳しくなったことです。〝躾〟だといってみんな引っ叩かれた。引っ叩くことで熱心な先生として評価されたので、みんな競争で生徒を引っ叩いた。教育が暴力と直結していたのです。
奉安殿に向かって適当な敬礼をしたら殴られたし、教科書を粗雑に扱ったら、教科書を前に置いて「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度も何度も頭を下げさせられた。そのせいか、いまだに「國本ニ培ヒ國力ヲ養ヒ以テ國家隆昌ノ氣運ヲ永世ニ維持セムトスル任タル極メテ重ク道タル甚ダ遠シ……」と九〇歳を過ぎてもなお暗唱できてしまうのですから。
そういえば、私が住んでいた平塚市を走る東海道線には、天皇を乗せたお召し列車が、伊勢神宮に向かうために通過しました。列車が相模川に差し掛かる頃にラッパが鳴り、全員気をつけの姿勢で列車を見送るのですが、いたずらっ子が茶化すようなことを言ってみんなを笑わせたんです。当然、先生は怒ってみんなを引っ叩きました。
今になって思えば本当にくだらないことばかりです。よくあんなことをやっていたなと思います。
大人になって、自分の子ども時代を振り返ってみるとわけのわからないことがたくさんあることに気が付きました。当時、先生が教えていたあの変なことは何だったのだろうか、と。そう思うようになり、教師用のものを含めて、当時の教科書を買い集めて、それを確かめてみることにしました。
教科書は、もっぱら神田の古本市で購入しましたが、私が戦前の教科書を収集していることが古書店のネットワークで知られ、みんながこぞって私の元に持ちこんでくるものだから、全部買い取りました。また、教科書と合わせて、当時の絵本も自然に集まっていきました。
でも、あのときに無理をしてでも買っておいてよかったと思います。そうでもしなければ、当時の現物は二度と手に入らなくなってしまう。復刻版だとどうしても雰囲気が違ってしまうのですね。やはり、生徒が実際に触れて使った、ささくれだったものがないと実感は伴わないですから。
『絵本と』や『修身教科書』には、私が所蔵している当時の教科書や絵本を収録しています。ですから読者には、戦時中の教育がいかに戦争に加担したのか、当時の雰囲気も含めて触れてもらいたいです。
今の日本は、再び戦争の道に進もうとしています。それを食い止めるためにも、若い人たちには戦時中の日本軍が中国でやったことなどをきちんと理解してもらわなければなりません。そのための平和教育が、これからはますます重要になると思います。(談)(やまなか・ひさし=児童読み物・ノンフィクション作家)
書籍
書籍名 | 増補版戦時下の絵本と教育勅語 |
ISBN13 | 9784864124423 |
ISBN10 | 4864124426 |