統一教会・現役二世信者たちの声
瓜生 崇著
辻 隆太朗
日本社会における統一教会(2015年に世界平和統一家庭連合と改称)批判は、霊感商法と合同結婚式についての話題を中心として、1980年代後半から90年代にひとつのピークを迎えた。1992年の合同結婚式にタレントの桜田淳子や山岸浩子が参加して、騒動となったことを覚えている方も多いだろう。著者の瓜生崇はこの90年代半ば、統一教会と並んで偽装勧誘で問題視される仏教系新宗教団体・親鸞会の信者として、大学キャンパスで勧誘活動に従事していたという。現在では真宗大谷派の住職として、「カルト」問題の啓蒙や脱会支援に携わっている。
2022年の安倍元首相銃撃事件を契機に、統一教会批判は過去を遥かに超える激しさで再燃した。反統一教会の立場で活動し続けてきた著者は、しかし、教団を分かり合えない悪と断じ、信者を洗脳された犠牲者とだけ捉えるような論調の危険性を指摘し、対話の必要性を訴える。
こうした分断的な視線は、社会からの排除を生み、結果として信者を孤立へと追い込みかねないという著者の危惧には、一定の理があるように思う。社会から「異質な人々」として扱われ続ければ、やがて社会との対話を断ち、閉鎖的な集団へと変化していく。カルト化を促進するのは、ときに社会の側のまなざしでもある。脱会支援の現場でも、敵対的な態度ではなく、信者を理解しようとする歩み寄りが成果を生むことが示されてきた。
本書の主軸は、強い非難の声に囲まれながら、 なお教団に留まる二世信者たちのインタビューである。近年「カルト二世」あるいは「宗教二世」問題が注目を集めているが、統一教会のそれは教義上の特殊性を持つ。祝福を受けた信者間に生まれた「祝福二世」は原罪のない「神の子」であり、救済の証だからである。信仰の結実である彼らは、二世問題の文脈からは、親の宗教の犠牲者としての側面がクローズアップされる。しかし本書において著者は、多様な背景を持ち、自ら信仰を選び取った個人としての、二世信者たちの「人間としての声」を届けることを企図している。あわせて、92年合同結婚式で山岸浩子の相手として注目を浴び、現在は教団改革の責任者である勅使河原秀行氏のインタビューが掲載されているのも興味深い。
とはいえ、一般論として、いわゆる「カルト」信者や脱会者の証言は扱いが難しい。信者は自身の体験を教団の世界観に沿って解釈し、脱会者は否定的立場から教団での過去を再構成する。特に、脱会カウンセリングを受けた人々は、反「カルト」運動の語彙を借りて経験を語ることが多い。どの証言にも一定のバイアスが存在する。したがって、それらを客観的事実として額面通りに受け取るわけにもいかない。
本書の二世信者たちは、教団の問題の多くは親世代のものであり、世代交代が進んだ今は違う、と語る。確かに過激な集団も世代を経れば穏健化するという社会的傾向は、統一教会でも例外ではないのだろう。しかし一方で、勅使河原氏の言葉に特に顕著だが、教団の問題を他人事のように捉え、昔のことだ、行き過ぎた信徒個人の問題だ、と組織としての責任を回避する様子もうかがえる。また日本の統一教会は、韓国の本部を中心としたコングロマリットの中の一組織に過ぎない。本書の証言だけを読んで、現在の統一教会と二世信者の実状を分かったつもりになるのは危険だろう。
それでも、これらの語りは、語り手たちがその時点で生きている現実だ。自分とは違う他者と向き合うこと――理解と共存を目的とするならば、「客観的」視点のみならず、「他者の」視点を得る努力が必要となる。「カルト」批判の立脚点は、教義の異様さではなく、そこに関わる人々の具体的な人権侵害のはずだ。であれば、相手を非人間化しないためにも、他者にとっての現実を想像することが求められる。
著者は、現代社会が単一の正義や悪では語れないこと、同じ出来事が立場や利害によってまったく異なる様相を見せることを前提とし、「複雑なことを複雑なままに」捉える姿勢の重要性を強調する。本書の問題意識は机上の空論ではなく、元「カルト」信者であり現在は反「カルト」活動に携わる著者の経験に根ざしたものなのだろうと思う。分かりにくい現実を単純化し、自分の信じる「正しさ」に固執し、それ以外を排除しようという態度は、極端な政治思想や陰謀論、そして、まさに「カルト」の論理である。私たち自身が批判対象と同じ構造を再生産してしまうことに対する警鐘には、筆者も賛同する。(つじ・りゅうたろう=北海道大学大学院文学研究科宗教学研究室博士後期課程単位取得退学・宗教学・陰謀論)
★うりう・たかし=真宗大谷派玄照寺(滋賀県東近江市)住職。著書に『なぜ人はカルトに惹かれるのか』など。
書籍
書籍名 | 統一教会・現役二世信者たちの声 |
ISBN13 | 9784831857293 |
ISBN10 | 4831857297 |