2025/07/11号 3面

論潮・7月(高木駿)

論潮 7月 高木駿  山口情報芸術センター(YCAM)で行われた「ファンダメンタルズバザール」にお呼ばれして山口市に来ました。「ファンダメンタルズ」は、「科学・アート・社会を新たに結びつけ直し、各領域を活性化させること、〔……〕新たな文化を形成することを目指し」(「ファンダメンタルズHP」)、アーティストと科学者が相互交流、共同制作を行う機会を提供するプログラムです。しかし、アーティストでも科学者でもない僕がどうして呼ばれたのかと言えば、哲学研究者なら「対話」を通じて両者をつなげる媒介になれると考えられたからです。そのお役目をまっとうできたのかどうかはわかりませんが、「情報」や「陰謀論」、「ゾンビ」や「生死」といった興味深いトピックについて両者にじっくりと対話をしてもらうことができました。  参加された生物学者で、アーティストと科学者は別の「環世界」に生きていると表現した方がおられました。「環世界」とは、ユクスキュル『生物から見た世界』(岩波文庫、二〇〇五〔一九三四〕)によって人口に膾炙した概念で、簡単に言えば、とある生物が自分の立場から意味づけをした主観的世界のことです。同じ物理的世界に生きていても、ヒトにはヒトの、イヌにはイヌの、ダニにはダニの環世界があり、それらはまったく異なります。環世界は、人間の視点だけが世界のすべてではないこと、世界にはさらにさまざまな意味の世界があることを教えてくれます。  生物学者の方が言いたかったのは、アーティストも科学者も、同じ物理的世界で生活していながらも、それぞれの仕方で世界を知覚・解釈したりして、独自の意味を与えた環世界を生きているんじゃないのということです。それぞれが独自の世界を持っている点を面白く思いつつも、両者の環世界が没交渉である点に問題を感じているようでした。環世界は、それを持つ者の世界として基本的に閉じているので、アーティストの環世界と科学者の環世界は直接交渉を持つことができないのです。それでも、自分(科学者)の環世界が「対話」を通じてアーティストの環世界と交わることができるかもしれないと、プログラムに参加したそうです。  逆にそうした問題意識がなければ、アーティストと科学者の環世界が交わることは基本的にはないのかもしれません。もちろん両者の環世界が交わるにこしたことはないですが、交わらなくても悪いことは起きないでしょう。しかし、社会のなかで、ある人が意味づけ/価値づけた世界が他の人の世界とまったく交わらないとなると、人々は「同じ社会にいながらにして、すでに別々の現実を生きている」(山本圭「政治的分極化から『生産的な対立』へ いま、危機にあるという〈公共〉のこと」、『中央公論』)ことになり、深刻な問題が生じてしまいます。  その最大の問題の一つが、公共(性)の危機です。公共とは、「市民が開かれた場に自由に集い、対話し、公論を形成する、そのような政治的な空間」(同)であり、市民みんなのあいだに何らかの共通性(常識や共通の感覚など)があることを前提にします。人々が自分の世界にだけ生き、他者の世界や現実と交わらないことになれば、当然、人々のあいだの共通性は失われてしまいます。  事実、同じ社会に生きているのに、互いの世界や現実が交わらない事態が起きつつあるように思います。もはや私たちの感覚器官の一部になったと言っても過言ではないSNSを通じて得た情報は、よく知られる通り、アルゴリズムの分析などを通じて個人化・個別化されています。人々は、そうした個人化された情報をもとに意味づけや価値づけを行い、環世界を作っていくわけなので、その世界では他者と共通する要素がどんどん希薄になっていきます。こんな状態では、互いの世界や現実のあいだに共通点が見出されることも稀になり、すべての市民に当てはまるような共通性が保たれるはずもありません。当然公共の維持も難しくなります。  しかし他方で、エコーチェンバーによって似た主義主張、信条や価値観を持った人々の環世界はむしろ交わりやすくなっていて、コミュニティや共同体が乱立する状態になっています。これまでの、いわば大きな公共が消失しつつある反面、人々は、それらのコミュニティに新たな「小さき公共」を見出しています。それらの人々にとっての公的な世界とはそのコミュニティだけであり、その外部には、環世界が交わらない他者、つまり、公的に分かり合えない他者が無数に存在することになります。でも、現実には同じ社会に生きている。その結果何が起きるのかと言えば、他者を、自分たちの「公式」の価値観へと強制したり、「普通」ではないと排除・差別したり、「公共」の敵として攻撃したりといったことです。こう言うと、女性スペースを守る会や参政党などの問題的集団がイメージされるかもしれませんが、リベラルが保守や右派の人々に対して行なっていること(例えば、キャンセルや軽蔑など)にも同じような構造が指摘できます(例に漏れず僕もこの構造のなかにいて、同じようなムーブをしてしまう時があります)。  同じ社会に存在しているのに、個人は別々の環世界や現実を生きていて、コミュニティや集団はそれぞれの現実を持っている。簡単に言えば、個人間の、そしてコミュニティ間に断絶が起きている、そんな現状があるわけです。どうしたらこうした事態を乗り越えることができるのでしょうか? アーティストと科学者が「対話」を通じて交流できたことから、「対話」を有力な候補にあげることができるでしょう。ところで、「対話」が成り立つには前提条件があります。今回の僕のような、両者(両陣営)に対して公平で中立な仲介者が必要になります。でないと口論や言い合いになってしまうからです。そして、そのさらなる前提として、安全が必要です。安全が確保されないと、自由に発言ができないのはもちろんのこと、仲介者を立てることもできなくなってしまうからです。  残念なことに、これらの条件をクリアすることは現状難しいように思えます。攻撃やキャンセルが容易に起きる点で、安全が確保されているとは言い難いからです。互いの安全を作る。これが最初のステップです。では、どうしたらいいのか?  「雑談」が一つの鍵になるかもしれません。「雑談」は、よそよそしい会話であるからこそ一定の距離感が確保されていることを示し、会話をしている点では敵意がないことを表してくれます(松本俊彦「雑談が人を救うこともある」、『世界』)。「雑談」ができたからといって、誰かの環世界と他の人の環世界が接続されるわけではないですが、「この人と話しても大丈夫なんだ」という安心感がお互いに醸造されていくはずです。このいわば最低限の安全を出発点として、「対話」のための安全を確保していくことができるかもしれません。たとえ価値観が合わない人であっても、嫌いだと思っている人であっても、生きている現実が違うような人であっても、まずは、他愛のない「雑談」をしてみませんか。(たかぎ・しゅん=北九州市立大学准教授・哲学・美学・ジェンダー)