2025/09/05号 5面

「ベルイマンの〝映画表現法〟」(ジャン・ドゥーシェ氏に聞く)404

ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 404 ベルイマンの〝映画表現法〟  JD オリヴィエ・アサイヤスは、映画を作るために、問題を設定しているところがあります。彼は、家族の問題や恋愛の問題など、ベルイマンのように曝け出すことはできていません。ベルイマンを模倣している一面があるのです。しかし、ベルイマンほど生を享受できていないようです。彼の中で、――彼自身も気づいていないところで――なにか遠慮があるのだと思います。それ故に、アサイヤスの映画は、そこそこの出来ながらも、いつも中途半端なものになってしまっている。彼が本気になれば、マギー・チャンとの関係についての映画など、面白い映画を作ることができるはずです。しかし、そのことについては語りたくない。そうした中途半端な態度が、マギー・チャンとの関係にも見られます……。ここは個人的問題なので、あまり語らないようにしておきましょう。  HK ベルイマンの映画は、彼個人の問題であると同時に、スウェーデンの演劇の歴史とも関わっています。幼少期からアウグスト・ストリンドベリの戯曲に触れ合う機会があったり、幼少期から知らず知らずのうちに演劇の歴史に関わっていました。神父であった父親から映写機を与えられたり、父親が浮気をしていたりと、幼少期から、その後の映画制作や戯曲に影響を及ぼす経験をしています。そして、自らも王立劇場で演出家として働くようになり、ストリンドベリと現実的に重なり合う一面もあります。そうした濃密な生き方を通して、スウェーデンの演劇や芸術の大きな歴史とどこかで重なり合うところがあった。結果として、非常に個人的でありながら、普遍的な芸術を作ることができたのではないでしょうか。  JD 当然のことです。多くの偉大な芸術家は、難しい生き方をしています。それは、銀行家やサラリーマンのような、ありきたりの生き方とは異なります。もちろん彼らは彼らなりの問題を抱えています――家族の問題やお金の問題など――が、それ以上に、場合によっては解決不可能な問題もあるのです。ベルイマンにとっては、父親の問題や自身の家庭問題も、そうした問題の一部であった。彼の映画を見ればすぐにわかりますが、真に生に基づいた映画には、話の筋は不要です。まさに眼前に生が存在するからです。ベルイマンは、本当に才能に溢れた映画作家であり、戯曲家でもあり、演出家です。まさに演劇人と呼べる人です。いかに脚本を書くべきかよくわかっている。しかし、それでも彼の脚本は、決して「ハッピーエンド」の予定調和で終わることはありません。重要なのは、生の断片を再現することなのです。それらがどのような結末に至るかはわからない。彼の映画は、ストーリーを語るために成り立っているのではない。脚本のプロットをあれこれといじって、見る人を驚かせるような、ハリウッド的職人芸は持ち合わせていません。そうではなくベルイマンが大切にしたのは、信仰の問題、愛の問題、家庭の問題等々、〈生〉のより根幹に迫ることでした。そこには、物語らしい作り物はありません。荒々しいままの生のやりとり、夫婦間の厳しい会話、極限の状況に置かれた人間の生き様が提示されるだけです。  当然のことながら、彼の映画にはいくつもの注目に値する瞬間があります。現実の人生では説明できないような瞬間、つまり映画という芸術においてしか再現することのできないものがそこにある。ベルイマンは、演劇について熟知していたからこそ、映画にしかできないことを表現しようとしていたところがあります。その表現法はヒッチコックやゴダールと比べて直接的ではありません。彼の映画は、主に対話で成り立っています。それを見れば、演劇人であることがすぐにわかります。しかし、その対話劇が、舞台から映像への単なる置き換えではない。そこに、ちょっとした映画固有の〈筆使い〉が常に見られるのです。  HK そうした映画的な一面が、アサイヤス、デプレシャン、アルモドヴァルにも影響を与えているのですね。  JD ベルイマンに限らず、ドライヤー、トリュフォーなどが、今日のフランス映画には大きな影響を与えています。いずれにせよフランス映画を含むヨーロッパ映画は、アメリカ映画の真似はできません。文化の根本からして、私たちのスタイルではないからです。  〈次号へつづく〉 (聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)