顕現しないものの現象学
永井 晋著
宮田 晃碩
現象学とは「現れ」についての哲学的探究である。だから本書のタイトル「顕現しないものの現象学」とは矛盾を含んだ表現である。フッサールの創始した現象学は、あくまで意識に現れうるもの、ないしその現れの構造と条件に焦点を絞ることで確立されたわけだが、そこで忘却されたもの、つまり「顕現しないもの」こそが実は問題であり、そこに現象学の切り開くべき道があるのではないかと問うのが、「顕現しないものの現象学」である。ハイデガーが最晩年のゼミナールで哲学の道として示したこのフレーズは、フランスを中心として展開された現象学の一潮流も指し示す。
例えば本書第一章で取り上げられるミシェル・アンリは、私たちが自ら感じる「生命」こそ、あらゆる経験の根底にありながら決して意識に現れない現象学の盲点だとして、この次元を追究した。それは神という「顕現しないもの」についての思索にまで展開される。また第二章で取り上げられるレヴィナスは、理解可能な秩序をつねに逃れ去る「他者」に現象学への挑戦を見出した。大雑把に言えば、アンリにとっては生命が、レヴィナスにとっては他者が「顕現しないもの」だと言える。それらの探究をまとまった見通しのもとで辿れるというのが本書の意義のひとつである。
しかし本書の特筆すべき点は、「顕現しないもの」をその多様性において捉えようとすることであろう。ハイデガーもアンリも顕現しないものの現象学を追究したと言えるが、そこで見出されるものの「貧しさ」を著者は指摘する。例えばアンリについては「顕現しないもの」として取り出される「生=神の自己触発」が「具体的には苦しみ/悦びの情感性としてしか現れないという、現象の極度の貧しさ」を指摘するのである。
著者自身が図示しているが、上方に究極の現れざる一者が(ハイデガーの場合「存在」、アンリの場合「生命」として)あり、下方に多様な現れからなる私たちの現実世界があるのだとすると、「顕現しないもの」は両者の中間にこそ豊かに見出されるのではないか。そのことを本書は、ユダヤ神秘主義のカバラーの伝統や仏教における曼荼羅、またアンリ・コルバンの解釈を介したイスラーム神智学を通して示す。目次を見ると扱われる領域の広さに面食らいそうになるが、その見通しははっきりしている。
ただ見通しがはっきりしているだけに、哲学がなにか到達すべき描像へ向けて決まった道を歩むものだと考えてしまう危うさからは、注意して距離を取りたい。私たちはむしろ著者が強調する、現象学とは可能性なのだということに耳を傾けるべきだろう。「顕現しないもの」の豊かさは本書において、宗教的な思索とりわけユダヤ教とイスラーム教という一神教の経験に即して描き出されるが、そればかりが探究の方途ではあるまい。「顕現せざるもの」が多様であるという本書の主張は、それに対するアプローチの多様さも含意するのではないか。詩や芸術、あるいはもっと日常的に経験される目立たない出来事のうちに、イメージの豊穣を見出すこと。それらが私たちの通常考える「現実的」な生活より、ある意味で高次の現実性を有するのだと信じること。それは決して突飛な考えではないはずだ。そのような試みに思想的な面で力を与えるのが本書であろうと思う。
なお本書は「一般にわかりやすく、「語り」で論じることを意図した」とあり、出典や文献表もほとんど示されない。講演を聞くつもりで読めばよいのかもしれないが、関心を深めたい場合は著者の他の著作にあたる必要があるだろう。また文体はやさしいが内容は決して簡単ではない。別の媒体に収められたインタビューが「付論」として再録されており、これが全体の企図を説明しているので先に読むと分かりやすい。「顕現せざるものの現象学」の先蹤たる新田義弘氏の議論を紹介する終章も、出発点となる問題が整理されているので先に読むとよいと思う。(みやた・あきひろ=東京大学大学院総合文化研究科助教・哲学)
★ながい・しん=東洋大学文学部教授・哲学・現象学。著書に『現象学の展開』『〈精神的〉東洋哲学』、共訳書にジャン=リュック・マリオン『存在なき神』など。一九六〇年生。
書籍
書籍名 | 顕現しないものの現象学 |
ISBN13 | 9784910154619 |
ISBN10 | 4910154612 |