2025/09/19号 3面

内在的多様性批判

内在的多様性批判 久保 明教著 石田 慎一郎  「みんなちがって、みんないい」とは、いかなることでありうるのかという問いから本書は始まる。それが含意する人間の多様性に対する寛容な姿勢を、人類学では、文化的多様性を念頭に文化相対主義と名付けて、これを研究者の基本姿勢とみなしてきた。それと同時に、この基本姿勢について既にいくつかの留保あるいは教訓を手にしている。  例えば、解消されるべき貧富の差を尊重されるべき文化の多様性として語ってしまうことへの異議申し立てがあった。語るべき個人の多様性が、文化的多様性あるいは文化の語り口によって覆い隠されてしまうという警告もあった。相対主義を個人の自由のみで組み立てると、みんなちがって、どうでもいいという、他者(あるいは他者として認知すらされない「みんな」)に対する無関心に結果するという疑念もあった。「みんなちがって、みんないい」というだけでは、他者を理解したことにも、対話したことにもならないので、むしろ真の普遍主義とはいかなることでありうるかを考えるべきだとする提案もあった。  人間の多様性をいかに語るべきかについて、右のように文化相対主義・自由主義・普遍主義の三視点で考えると、他者理解や他者とのつながりを諦めないために、共通の枠組や基準の存在を想定あるいは願望しながら多様性を語ることになる。そうした議論は、本書著者からみれば「多様性に外在する(人々の多様な生の外側にある)基準に基づいて多様性を捉える」ものだ。他方、本書を通じて著者が提起するのは、そうした外在的基準によらずに多様性を内在的に理解する可能性に目を向けることである。「バラバラな世界をバラバラなままつなぐ」可能性、「互いに嚙みあわない枠組に依拠する諸存在が互いにすれ違いながらも関わり合う営みを捉えうる」可能性を考えてみようという問いが、そこから開かれる。  多様性を内在的に捉えるとは何か。難解だが、ブルーノ・ラトゥールとマリリン・ストラザーンの人類学を論じた本書3章「ポストモダンを超えて」を読むと比較的摑みやすい。「「知る」ということは、世界と厳密に対応する言明を与えることではなく、世界の内側で他の存在者と様々な関係を取りむすぶことそれ自体であり、対応説的な正しさはその派生的な効果の一つにすぎない」と著者は述べる。このような関係論的な知識観をもって、ストラザーンがいう「部分的つながり」、すなわち民族誌的他者の側での「異なる基準をもつ各部分が所与の全体に還元されずに結びついていく過程」に人類学者側の探究もまたその一部として連なると認め、その合流地点に彼我の視点の交換ならびに共在の可能性を「喚起」する、そのような人類学的探究だと理解できる。既知の同一基準による「比較」によってではなく、知る=関わるたびに都度顕れる交換・共在の可能性において「比較」すること、またそこから開かれる、人間の多様性を経験的に理解する可能性が本書の関心事である。  したがって、本書の内在的多様性批判を理解するうえで有用なのが、本書における人類学的「比較」論、とくに本書4章「創作としての文化」ならびに7章「「転回」をやりなおす」で紹介・検討されているマティ・カンデアの「正面的比較」(「彼ら」すなわち民族誌的他者と「私たち」との内在的視点での比較)と「側面的比較」(複数の民族誌事例の外在的視点での比較)の対概念である。本書著者が独自に提唱する「斜方的比較」は、側面的比較に登場する外在的な「彼ら」を正面的に比較する可能性を求め、それによって側面的比較自体を再編する可能性をも求める、内在的人類学の新機軸である。  本書は、最近の人類学で頻繁に参照される複数の作品を細やかにレビューしながら、内在的多様性論を基礎づける諸説について、「ポストモダン人類学から存在論的転回へ」(本書副題)の流れで順に論じ、それらを総合する結論にて著者独自の方法論的提案をする体裁をとっている。だが、記述・分析の範例を提供する(外在的)理論として紹介しているわけでは勿論ない。私たち/彼らとしてのそれら著者たちがそれぞれに抽象した私たち/彼らの世界を本書著者が「比較」しているのだ。(いしだ・しんいちろう=東京都立大学教授・社会人類学)    ★くぼ・あきのり=一橋大学大学院社会学研究科教授・文化人類学。著書に『ロボットの人類学』『機械カニバリズム』など。一九七八年生。

書籍

書籍名 内在的多様性批判
ISBN13 9784867930984
ISBN10 4867930989