踊るのは新しい体
太田 充胤著
鮎川 ぱて
元ダンサーで、現役の医師で、同時に東京大学大学院にも所属し科学哲学を専攻。本書は、異色というほかない経歴を持つ太田充胤による身体論であり、同氏の第一作である。異色な経歴を持つ著者の第一作となれば、期待するのは、率直に言って、蛮勇である。勝手さと強引さは一面には美徳である。本書オビの惹句には「ボーカロイド、VTuber、TikTokからAIまで」、さらには「SF、メディアアートから盆踊りまで」とある。それらを串刺しにして語ろうとするなら、すなわち、まだ議論が追いついていない同時代の文化環境を論じる新人として登場しようとするなら、その心意気を持つ時点で、その議論がどんなに蛮勇であろうとも同氏は歓迎されるべきである――惹句にみなぎる野心を受け止めるべく、そんな心の準備をした上で、本書を紐解いた(以上、加えて以下、自分も新人であるゆえの不遜な物言いを許されたい)。
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本書の副題には「複製可能な者たちのための身体論」とある。本紙の読者諸氏には釈迦に説法かもしれないが、(同書の中ではそこまで解説されない)背景はこうだ。
20世紀は複製技術の時代だった。複製メディアと蜜月を迎えた映画、音楽などは隆盛を極めると同時に、複製できない表現は退潮していった。たとえば演劇。映画の起源のひとつは、演劇をただ撮影するだけだった。けれども、映画はただの記録方法であることを離脱して、「記録する=撮影する」ことにアイデンティティを置く複製技術時代の一大ジャンルとして、演劇を凌いで世界的に伝播していった。複製は実演を凌駕した。であればこそ、劣勢の実演は、非・複製的であること=代えの効かなさをアイデンティティとしたし、その大きな根拠のひとつは身体だった。複製技術時代の到来と、身体の(もっと言えば「私」の)現象学の登場は、表裏一体の出来事だった。
本書は、そんな20世紀的状況が半壊していくエピソードから始まる。意味論的にこの私がいかに他者の写像であろうとも(ラカン、ボードリヤール)、意味や「私」にまみれた「身体」とも一線を画する、この「体」は複製の論理に侵されない。しかし著者は、ニコニコ動画などの動画サイトに二次元的に表象されるキャラクターたち(初音ミクやVTuberなど)が、公開共有されたモーションデータ(MMD=Miku Miku Dance)によって、完全に同じダンスを複製していくさまを目の当たりにする。劇作家の平田オリザ(や、アルトー以来のたくさんの演出家)が、演者の内面を剝ぎ取り身体を体それ自体として存在させようと拘泥したにもかかわらず、どこまでも「純化しえない身体」でありつづけた体は、いま、「シミュラークルとしての体」という20世紀においては、完全に語義矛盾的な存在感を放ちながらたしかにそこに――インターネットにある。
著者はそこに、実写=現実の人間による「踊ってみた」やTikTokでのダンスのトレースにも通底する感性を見出していく。20世紀には、動的な体の運動こそは代替できない個別性の根拠のはずだった。しかしそれは、代替できないから「代替できなさ」を担保していたにすぎず、どうしても譲り渡すことのできない部分ではなかったようだ。代替できるなら、代替すること=他者と同じであることによって価値を生じる領域として、新世代の若者たちは、「私の体」を譲り渡していく。彼らの体は流通可能性の高いダンスをトレースしたかったし、有名活動者や企業や資本主義はトレースされたかった(流通したかった)。そうして、トレースされることを想定した「トレーサビリティ」の高いダンスが提供され、策略のままに複製が流通していった。それに各人の体も馴致されていく。そんな 現状も活写されている(といっても10年以上前に始まる話だ、AKBなど)。
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果たして本書は、同時代的環境と格闘していた。ただしその戦いは勝手でも強引でもなく、ゆえに、それが苦闘であることを隠さない、同時代における非常に誠実な「新しい身体論」だった。苦戦であっただろうことは記述から伝わる。身体および関連する先行議論や試みは山のように存在し、それらをさらうことだけでも大仕事である。
本書の長所は、それらすべてと真正面から対峙するのではなく(だが着実にそれらを紹介しつつ)、「そちらへ行くと袋小路だ」と判断したならすぐさま踵を返す、その軽やかな身振りである。同時代的事象を、既存の問題系に接地するか、あるいは回避するか。回避される問題系は、たとえば、生命/非生命である(「我々は、問いの焦点を「生命」から別のなにかへと正しく横滑りさせねばならない」110ページ)。本書の魅力は、その動的な判断の痕跡をそのままに残す筆致――つまり迷いを隠さない筆致である。それはさながらムーンリバーを渡るようなステップで、つまり、本書の語り自体がダンスのようだった。
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著者の振る舞いに倣うわけではないが、本書の批評戦略――故・金子修という先人が晩年の変節として突然語り出した「人形論」、および、その議論をもとにする「人間・人形・無生物」という概念区別に「魂」「ダンス」という概念を交錯させる――はあまり成功しているとは感じられず、紹介を回避した。著者の金子への弔意はゆるぎない存在感を持つ。そこにはまさに「魂」があり、それは何人にも侵されるべきではない。しかしそのこととは独立に、金子の人形への執心を現代的環境の説明に接続する点に難を感じたのは事実だ。
おそらく、著者は、著者が思う以上に、身体を信じている。「ダンスは振付と身体制御の問題ではない」(145ページ)という一方、即興性に人間性を見出す視線への懐疑も表明される。「人間の体」を複製可能性のもとで等価化して本当によいのか。複製可能な身体に対して、著者は真に降伏していない。著者は迷っている。つまり、踊っている。
それらを見るにつけ、この著者による、「新しい」ことが目指される同時代環境を想定した身体論ではなく、それらに束縛されない自由なダンス私論を読みたいと思った。第一作でそれまでの肩の荷を下ろした太田の第二作に、いやが上にも期待が高まる。あなたは次のダンスこそが期待される者だ。すなわち、真なる新人の登場である。
(あゆかわ・ぱて=ボカロP・東京大学大学院博士課程・身体情報学)
★おおた・みつたね=医師・批評家。内分泌・糖尿病専門医。旅行する批評誌『LOCUST/ロカスト』編集部。二〇二二年より東京大学大学院総合文化研究科科学史・科学哲学研究室に在籍。一九八九年生。
書籍
書籍名 | 踊るのは新しい体 |
ISBN13 | 9784845924172 |
ISBN10 | 484592417X |