2025/09/19号 6面

フランスのニーチェ

フランスのニーチェ ジャック・ル・リデ著 大久保 歩  フリードリヒ・ニーチェは1889年に精神の闇に入り、1900年に亡くなる。彼が目にすることのなかった20世紀は、思想の影響力から考えれば、ニーチェの世紀だったと言っても過言ではない。「神の死」や「超人」といった彼の思想は世界的に広く知られ、ナチズムに利用されることにさえなった。  20世紀がいかなる意味でニーチェの世紀だったのかについては、さまざまな受容史研究によって鮮明な像が描かれつつある。ジェニファー・ラトナー=ローゼンハーゲン『アメリカのニーチェ』、金正鉉編著『北東アジア、ニーチェと出会う』といった研究が近年日本にも紹介されている。蓄積されつつある本国ドイツの受容史研究も今後紹介されていくべきだろう。  本書は、20世紀フランスにおけるニーチェ受容を描く。フランスの受容は、他国と比べて独特の位置を占めている。ニーチェの哲学・思想研究は戦後、ナチズムとの関係からドイツではある種タブー化されたのに対して、フランスで大きく花開く。とりわけいわゆる「ポストモダン」思想はニーチェを重視し、彼の思想をさまざまな仕方で発展させていった。20世紀終わり以降のニーチェの世界的影響力は、フーコー、デリダ、ドゥルーズといった「ポストモダン」思想家たち抜きには考えられない。したがって、フランスでのニーチェ受容を詳細に検討した本書の意義は大きい。  本書はフランスにおけるニーチェ受容を、大きく三つの契機に分けて整理している。第一の契機は、19世紀末から第一次世界大戦までの受容である。フランスとドイツの敵対的関係にもかかわらず、ニーチェはフランスで爆発的に読まれていく。ニーチェは中期以降、フランス文化への賛美をたびたび捧げており、実際フランスの文献を読み込んでもいた。そうしたニーチェはフランスの読者にまさにフランス的な著作家として受け入れられていくのである。だが、この時期の受容にはつねに独仏の微妙な政治的関係が影を落とし続ける。さらに妹エリザベートは兄の原稿を独占することで、フランスの翻訳家や研究者たちをみずからの影響下に置こうとする。  第二の契機として挙げられるのが、1930年代から第二次世界大戦までの期間である。その中心には社会学研究会の存在があり、とりわけバタイユが重要視される。彼らはナチズムに簒奪されたニーチェを、独自の解釈でみずからの手に取り返そうとする。そしてバタイユは、同時期のハイデガーと同様に、しかしハイデガーとは異なる仕方で、ニーチェをひとりの思想家として読み解き、みずからの思想の血肉とするのである。それはそれまでの文学的な受容とは一線を画すものであった。  第三の契機が、第二次世界大戦以降の時期である。ドイツとは異なり、ニーチェはフランスで広く読まれ続けていく。この時期の大きな事件が、イタリアの研究者ジョルジョ・コリとマッツィーノ・モンティナーリによる批判版全集の編纂である。それまで未完の重要著作と目されていた『力への意志』がエリザベートの捏造であることが明確にされ、大量の遺稿が新たなテクストとして姿を現す。批判版全集の計画が明らかにされたロワイヨモンでのシンポジウム(1964年)にはフーコーやドゥルーズも参加し、その後フランスでのニーチェ思想研究はひとつの頂点を迎えていく。  本書は、フランスにおいてニーチェがどれほど多様に読まれてきたかを、実際のテクストの引用によって示していく。詳細な文献表や索引と合わせて、資料的価値は高い。ただ、解釈上の踏み込みは弱く、やや散漫な印象を受けるのは否めない。しかしこれは多様な受容を集めた代償であるとも言えるだろう。  21世紀に入っても、ニーチェはポスト・トゥルースの元凶として糾弾され、アメリカの新右翼への影響も取り沙汰されている。ニーチェをどう読むかはわれわれにとっていまだ問題であり、本書はその手がかりとなるはずである。(岸正樹訳)(おおくぼ・あゆむ=東京外国語大学非常勤講師・哲学・政治理論)  ★ジャック・ル・リデ=フランスの思想史家。19世紀末から20世紀初頭の、ウィーンを中心としたドイツ語文化圏の思想を研究。一九五四年生。

書籍

書籍名 フランスのニーチェ
ISBN13 9784588011870
ISBN10 4588011871