2025/06/13号 5面

海の地政学

〈書評キャンパス〉
竹田いさみ著『海の地政学』 三田 侑  歴史を学ぶことが苦手だった。地名も人名も年号も覚えられない。高校の日本史・世界史の授業は退屈で、成績はいつもクラスのビリだった。そんな私を国際関係史や国際政治といった学問の大海原に誘い込んだのが、この一冊である。  本書は、航行の自由を求める国々が覇権を巡って争う四〇〇年の海洋史を描いた一冊である。近年、「地政学」という語をタイトルに据えた本をよく目にする。地理と政治を合わせたこの用語と、今日の不安定な世界情勢の解説を求める読者との相性が良いのだろう。しかし、地理的要因ばかりに注目し、それらを過度に強調して世界情勢を全て説明しようとする流行りの地政学本には限界を感じてしまう。その点、本書は、海洋という地理的空間における覇権をめぐる「歴史」が描かれており、近年量産されている地政学本とは一線を画する。著者は、地政学をアプローチの一つとして用いつつも、各国が「航行の自由」を確保するためにいかに鎬を削ってきたかという一貫性のあるストーリーを紡ぎ、四〇〇年に及ぶ海洋の「ヒストリー」を読者に提供する。  本書には、様々な国家や人物、地名が登場するのだが、そのどれもが海洋秩序を形成する上で重要なプレイヤーや要地として言及されている。まず、前半部分では、スペイン・ポルトガルをはじめ、オランダ、イギリス、アメリカといった国家による、海洋の利権を巡る覇権競走が時系列に沿って描かれる。  イギリスの海軍戦略、石炭確保や海底ケーブルの敷設、極秘情報を握る黒幕に関する記述は、如何にして大英帝国が築かれたのかという教科書には記されていない歴史を明らかにしている。  イギリスに次いで覇権を握るアメリカについては、ペリー来航といった日本との接点をはじめ、海洋パワー論者マハンや米国大統領セオドア・ローズヴェルトといった、アメリカを海洋大国に導いた人物がどのように歴史を動かしたのかが、興味深いエピソードを添えて描かれている。 また、世界物流の要塞であるスエズ運河やパナマ運河がどのようにして建設されたのかを紐解くことで、海洋利権の獲得を目指す大国の思惑を明らかにしている点も読みどころだ。海上自衛隊の有する練習艦「かしま」に乗艦し、スエズ運河を通峡した著者自身の経験を綴った描写はとても印象的だった。紙幅のほんの一部に過ぎない描写だが、港町の光が水面に写る幻想的な景色をはじめ、著者の脳裏に焼き付いているに違いない船からの風景を読者にも共有している。著者の秀でた観察眼と知性を印象付けるだけでなく、巧みな表現力によって、読者をスエズ運河の旅へと誘うのだ。  後半からは、国連海洋法条約の形成とその秩序に挑戦する中国の動きに関して説明がなされる。なぜ領海が一二カイリで排他的経済水域は二〇〇カイリなのかといった「謎」が解かれてゆくのが面白い。  最後に、日本の近海に海洋秩序を揺るがしかねない不安要素が存在することを読者に提示する。経済・軍事大国化に伴い海洋進出に野望を抱いた中国は、「一帯一路」構想の実現に向けて着実に駒を進めている。日本は、外交力のみならず、海上自衛隊による防衛力・海上保安官による法執行能力を駆使して、中国に歯止めをかけなくてはならない。  著者の「話が枝葉に及ぶ習い性」からか、本書のあちこちに散りばめられた小話は、どれも非常に興味深く読者の好奇心を搔き立てる。また、読み進めていくうちに、著者が実際に現地に赴き、そこで得た感覚や匂いを大切にして執筆したであろうことに気が付くのだ。読者を知的好奇心の大海原に引きずり込む、そんな可能性を秘めている一冊だ。

書籍

書籍名 海の地政学
ISBN13 9784121025661