2025/08/08号 6面

野に遺賢をさがして

野に遺賢をさがして 森 まゆみ著 佐々 風太 本書は、決して再現し得ない、人、場、自然の、「一期一会」(七頁)の記録である。  情報誌『地域人』(大正大学出版会)に連載されていたエッセイ「暮らすように町に泊まる」から、一七本を抜粋して一冊に編んだのが本書だ。新型コロナウイルス感染症流行の前の二〇一八年に発表されたものから、二〇二三年に発表されたものまで、著者の旅の途中の様々な出会いについて記されている。コロナ禍以前にはコロナ禍以前のかたちの出会いがあり、コロナ禍以後にはコロナ禍以後のかたちの出会いがある。  本書には、岩手県、山形県、滋賀県、鳥取県、宮崎県など、日本各地が登場する。そこには、詩人の石川啄木や宮沢賢治、農村芸術の確立に没頭した松田甚次郎、建築家のウィリアム・メレル・ヴォーリズ、日本初の孤児院を開いた石井十次など、多くの歴史上の人々の歩みや記憶が宿っている。そしてそこに、存命中の多様な人々の言葉や思いが交差している。  民藝を中心に近現代工芸を研究している評者にとっては、馴染み深い名前も多い。民藝運動の支援者であった実業家・大原孫三郎。民藝運動の父・柳宗悦や、その長男でデザイナーの柳宗理も関わった、「雪調」(積雪地方農村経済調査所)をめぐる人々。鳥取の民藝運動の中心となった医師・吉田璋也。白磁作家・前田昭博。民藝研究者との交流も深いパン屋「タルマーリー」。  彼らは、「あえて地方に、地元に残った人びと」(二五二頁)。彼らを「野の遺賢」として再定位することに、評者はある種の新鮮さを覚えた。本書に登場するすべての人が民藝的とも、思えてくる。無心に、没入して生きていることが他者を感動させる。自らの信念に沿うことがそのまま美しさになっている、とも言える。本書は、こうした野辺の花々の記録である。  本書は副題を「ニッポンとことこ歩き旅」という。歩くということは、本書に通底する営為だ。評者は、民藝運動の染色家・芹沢銈介の言葉を連想した。  「自分は目的地へ自動車を走らせることを好まない。ましてバスは御免蒙りたい。自分の足を選んで、途中を愉しみたい。苦しみたい。手仕事で、その途中が如何に喜びか、またその間の時が、真によき仕事のために貴重に働くかを痛感する」(芹沢銈介「型染の工房から」(一九五七年)、『芹沢銈介文集』静岡市立芹沢銈介美術館、二〇一三年、一〇頁)。こう、芹沢は語った。一見効率的でない、折々の「途中」の中に、真の創造は宿っているというのである。  あるいは本書にも名前の登場する、民藝運動の陶芸家・濱田庄司の暮らしを、評者は思い起こす。評者も調査のために度々訪れる旧濱田邸(現・濱田庄司記念益子参考館および濱田窯)は、興味深い動線を持っている。そこには濱田が蒐集した民家が幾つも建つ。濱田の存命時には大小あわせて一九もの家屋があった(濱田庄司『無尽蔵』朝日新聞社、一九七四年、三一三頁)。  現在の姿はそのままではないが、どこか無秩序な家屋の配置は健在で、敷地に散乱させたような印象さえ受ける。訪問者は敷地の中をうろうろと歩かざるを得ないし、歩いてもその動線の合理的な理由が見つかる訳ではない。しかし歩き回るとき、建物の中に、道脇に、濱田の作品が置かれ、蒐集品が置かれていることに気が付く。移築された家も、木も花も、すべてがそこに咲いていることに気が付く。不合理とも見える、特にゴールのない動線の中に、濱田の軌跡も創造性も、見出すことができる。  本書に登場する人々も、そして本書の著者も、こうした「歩き」を離れたものではない。「コスパ」や「タイパ」という語に代表される、現代の過剰な効率志向、目的論的な思考――本書で示される風景、語られる言葉は、それらへの薬になる。野辺の花は、野辺の薬花でもある。しかし本書はそうした効能を声高には叫ばず、淡々と進む。効率や目的を超えた世界は、いちいち意義を言い立てたりはしない。花は、意味を超えているがゆえに美しい花である。  歩くこと、二度とない出会いを愉しむこと、心が動くこと。言葉にしてみればごく当たり前のことだ。しかし現在、これほどなおざりにされていることもない。そんなことを、本書に広がる「野」は、感じさせてくれる。(ささ・ふうた=東京科学大学研究員・民藝)  ★もり・まゆみ=作家。一九八四年、地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を創刊。著書に『谷中スケッチブック』『不思議の町 根津』『鷗外の坂』『彰義隊遺聞』『「青鞜」の冒険』『聖子』『聞き書き・関東大震災』『子規の音』『じょっぱりの人』など。一九五四年生。

書籍

書籍名 野に遺賢をさがして
ISBN13 9784750518756
ISBN10 4750518751