<民主主義の危機を前に声をあげる>対談=井上達夫・渡辺 靖 『悪が勝つのか? ウクライナ、パレスチナ、そして世界の未来のために』(信山社)刊行を機に
第2次トランプ政権(トランプⅡ)が誕生してまもなく3ヶ月を迎えるが、すでに世界はその一挙手一投足に振り回されている。先ごろ『悪が勝つのか? ウクライナ、パレスチナ、そして世界の未来のために』(信山社)を刊行した東京大学名誉教授の井上達夫氏と慶應義塾大学SFC教授の渡辺靖氏に、混迷のアメリカ、ウクライナ、パレスチナの問題をめぐって対談いただいた。(編集部)
反省の時ではない
渡辺 井上さんの新刊『悪が勝つのか?』、大変面白かったです。まったく反論するところがなく、すべておっしゃるとおりだと思いながら拝読しました。その上で、今回はトランプⅡのアメリカの現状を中心にお話ししていきながら、同時に本書で触れられているロシアやガザのことも議論できればと思っています。
井上 ありがとうございます。今回の大統領選のおさらいから始めると、トランプとの公開討論での失敗で人気が低落したバイデンが長い躊躇の後、副大統領のハリスに大統領候補の座を禅譲しました。主役がハリスに変わった直後は民主党内の雰囲気は明るくなった。しかし、他に有力候補も色々いたわけだから、時間が限られていたなかでも複数候補者の公開の政策論争をやり、民主党全国大会で決戦投票をした上で、大統領候補を決めるべきだという意見もあった。それをしなかった結果、ハリスは自分の政策構想を十分に具体化できず、有権者にアピールしきれませんでした。
民主党側はバイデンの低支持率の要因を、政策の内容ではなく高齢不安にみていた。そこで、若々しく、DEI(Diversity, Equity & Inclusion)に合致するハリスならば、イメージ戦略で勝てると思っていたふしがある。得票結果をみても、ハリスも7000万票台に届いたけれど、最後の一伸びが足りなかった。なぜ伸びなかったか。それはトランプⅠのとき同様、本来の民主党の支持基盤だった労働者層に今回も疎外感を与えてしまったという点もあるけど、ガザの問題に対して明確なメッセージを打ち出せなかったことも大きい。ネタニヤフに対して釘をさしつつも軍事支援を続け、安保理におけるイスラエルの非難決議に拒否権を行使したバイデンと自分は違うと言っていたハリスも、何が違うか最後まではっきりさせられなかった。それゆえ、パレスチナを支持する若い世代が幻滅して棄権し、票を伸ばしきれなかったのです。
渡辺 井上さんが『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』(毎日新聞出版、2015年)をお書きになった頃は、まだこのタイトルにあるような期待もあったと思うんですよ。ところが、トランプⅡに直面した今、リベラルはもともとでしたが、リベラリズムもまた相当な危機に瀕しているというのが率直な印象です。
トランプのスタンスは、非常に大雑把に言うと被害者ナショナリズムです。1期目の就任演説のなかで「American Carnage(アメリカが殺戮されている)」という表現を使っていますが、要するに、自由で開かれた世界によってアメリカは殺されているのだから、そこから脱却し、これからはアメリカ・ファーストでいくのだ、と。そこは1期目とまったくブレていません。
井上 トランプⅠのときは、副大統領のペンスや、国防長官を務めたマティスといったプロの政治家・軍人が補佐役にいたから、トランプがめちゃくちゃなことをやったとしても、最後は制止することができましたが、トランプⅡの補佐役は、トランプへの忠誠心だけで選ばれた素人ばかりです。副大統領のヴァンスが象徴的ですが、現在トランプの暴走を止められる人間が政権内にいない。私はそのことを一番に怖れています。
また、トランプが3期目を目指すのではないかという説もありますが、憲法改正が必要なので、それはさすが無理だと思います。だから彼は、この2期目で歴史に自分の「レガシー」を残すつもりじゃないか。客観的には滅茶苦茶でも自分ではすごいと信じていることをやらかす。関税戦争で米国を繁栄させてやるとか、ウクライナ戦争、ガザ戦争を理非を問わず無理やりにでも停戦させてノーベル平和賞をもらおうとか。そういった思いがあるから、株価が落ちようが気にせず、無理無謀な政策を、ひたすら自らの虚栄心で推し進めるのではないか。しかもそれを誰も止められないから、トランプⅠの時よりもはるかに危ないのです。
トランプⅠ政権誕生の時の渡辺さんとの対談(本紙2016年12月9日号)の中で、民主党・リベラル派も悪かったという話になりましたが、今はこんな反省をして済む場合ではありません。トランプⅡの暴走をこのままにしていると、これまでアメリカが築いてきた対外的な影響力が壊れるどころか、米国の立憲民主主義体制が破壊される。憲法も議会も司法も州の自治も無視した大統領令が乱発されている。ほおっておくと、米国は、すべての権限が大統領一人に集中する「electoral dictatorship(選挙による独裁制)」の国家になってしまう。本当に危険な状況です。
渡辺 1期目に関しては、いまお話しいただいたように、いわゆる政権内のプロたちがブレーキ役となっていたから、やりたいことができなかったという後悔があったと思います。加えて、2年後には中間選挙を控えていますし、残りの任期4年間のうちに何かしないと、という焦りもあるのでしょう。だから、就任直後からフルスロットルできているな、と。それは「Shock and Awe(衝撃と畏怖)」と言われていて、大統領令からSNSまで含めて、とにかく次から次へと政策なりメッセージを連発し、いわゆる「Flood the Zone(情報洪水)」状態にして、ファクトチェックが不可能なくらい情報で圧倒する。これは、ファシズムの典型的な手法らしいですね。歴代の大統領たちが大事にしてきた価値や制度といったソフトパワーをまったく意に介さず、むしろ軍事力と経済力というハードパワーを全面に押し出してきているのがトランプⅡです。
憲法破壊クー・デタ
渡辺 これは井上さんのご専門ですが、「Unitary Executive Theory(単一行政府理論)」という考え方があります。大統領と一定の距離を置くべき司法省やFRBにまでどんどん介入していき、大統領にかなりの権限を集中することを指し、この考え方自体は昔からあります。特に80年代のミース司法長官や、ジョージ・W・ブッシュ政権のチェイニー副大統領がそれに近いことを口にしたことがありました。今回、トランプの周りのシンクタンクがその理論に基づいた様々な政策、大統領令を大統領就任前から準備してきて、実際に実行してきています。
それから、イーロン・マスクのような巨額の富を持った人たちが影響力を持つ民主主義というのは、もはやアメリカ版のオリガルヒ(寡頭政)なのではないかと、懸念の声も出ています。そういう意味では、トランプⅡによって民主主義社会ないしは法治主義、広い意味でのリベラリズムが大きな岐路に立たされているのではないか。かなり抜本的なアメリカに対する見方の再考の時期に来ているのではないかと考えています。
井上 トランプⅡは確信犯的に憲法破壊クー・デタをやろうとしている。その戦略が、先ほど渡辺さんがおっしゃった「Shock and Awe」とか「Flood the Zone」です。これは昨年刑期を終えて出所したスティーブン・バノンの戦略らしいですね。バノンはトランプⅡ政権のポジションについていませんが、戦略家として背後にいる。要するに、あちこちに火をつけて回れば、どこから消していいかわからなくなる。そのようにして対抗勢力の関心とエネルギーを分散・攪乱させる手法が「Flood the Zone」と呼ばれています。大量の偽情報拡散だけでなく、米国憲法秩序に対する多方面一斉攻撃を意味しているので、これは「情報洪水」というよりむしろ、第二次大戦でナチスドイツが行った「Blitz(電撃攻撃)」でしょう。
この憲法破壊クー・デタに合憲性の仮面を被せる理論が「Unitary Executive Theory」(UET)です。これは合衆国憲法第2条第1節第1項の「執行権(the executive power)はアメリカ大統領に属する」という規定を根拠に大統領の大統領令、すなわち「執行命令(the executive order)」を大統領以外の誰も制約できないとするものです。
憲法は制憲者の当初の意図に従って解釈すべしとする「原意理論(the original intent theory)」というのがあって、原意理論の立場からUETを主張する者もいますが、UETは米国法学界主流からは否定されている珍説です。ハーヴァード・ロースクール教授で憲法学・法哲学の研究者であるキャス・サンスティーンは、この理論の欺瞞を暴く論説を『ニューヨーク・タイムズ』に寄稿しています。原意理論というけれども、UETの主張は制憲者の意図にも反する、と。そもそも大統領の「執行権」は法律を執行する権限なのだから、法律に反することはできないし、かつ、法律でいくらでも執行権の行使に制約をかけることができる、と。これは当然のことで、執行権が大統領に専属するからといって、大統領が無制約にそれを行使できるというのは滅茶苦茶な論理の飛躍です。
トランプⅡが憲法も法律も無視してやっている大統領令の乱発に対しては、まずは立法府たる議会が歯止めをかけなければならないのですが、いまはトリプルレッドで、上下両院を共和党が支配しているから、この暴走を止めることはできない。では、これで終わりなのかというと、そうではありません。大統領に対するチェック機能を果たせるものとして各州の自治権と司法がある。
そもそも、アメリカは連邦制の国ですから、連邦政府は憲法で連邦の管轄事項とされていること以外は州の自治権を尊重しなければならない。これに関していま問題になっていることとして、トランプが連邦政府の権限をもってニューヨークの渋滞税の認可取り消しを表明し、民主党選出のホークル知事が強く反発しています。この件は連邦政府と州政府の機関訴訟に発展しつつあって、州側が勝つ可能性も十分にあるのです。
司法に関しては、いまの連邦最高裁は共和党寄りの保守派が6人、リベラル派が3人で、保守派が圧倒的多数の状況なので、憲法の最後の番人になれないのではないかと危惧されている。連邦最高裁は、トランプⅠ末期の連邦議会議事堂襲撃事件で、扇動したトランプに対し「推定免責」の判断を下しており、私も不安視しています。ところが、最近、変化の兆しもある。この3月5日に最高裁は、USAID(アメリカ国際開発庁)の対外支援資金の支払いを命じた連邦地裁の判断に対して異議を申し立てていたトランプ政権の訴えを斥けて、連邦地裁の判断を支持しました。6人の保守派判事の中から、ロバーツ最高裁長官と、バレット判事のふたりがリベラル派と手を組み、5対4でトランプ政権の訴えを退けた。ロバーツ長官もさすがにここまでトランプに好き勝手にやらせるのはまずいと思ってきたのでしょう。
実は、保守派と思われていた判事の態度がガラッと変わることは、米国憲政史上よくあることです。典型的なのはアイゼンハワー政権のときに選ばれたウォーレン判事です。当初は保守派と目されていたウォーレンが長官となったウォーレン・コートによって人種別学法違憲をはじめ、数々のきわめてリベラルな判決が下されてきました。
そうした例が過去にあるから、私はこの先、何かが起こりそうな気がしている。特に女性判事のエイミー・バレットはまだ50代前半で若いし、女性初の連邦最高裁長官の座だって不可能ではない人物です。そうなると、彼女はトランプⅠによって最高裁判事に選ばれましたが、トランピストというレッテルを貼られるのを避け、リベラル派も含む司法界から、憲法の番人としての信頼を広く獲得していかなければならないと考えるはずです。ロバーツ長官も、トランプⅡがひどくなればなるほど、それを放置したら、ロバーツ・コートの責任者としての自分に最大の汚名が帰せられる、それは避けたいと思いはじめるのではないか。そういった司法の変化に期待しています。
渡辺 トリプルレッドの構図は前回と同じですが、トランプⅠのときとの違いは、共和党がかなりトランプ党化しているということと、最高裁は基本的には保守有利だということ、民主党のリーダーが不在ということです。
そうした中で、彼に歯止めをかけられるものは何か。まずは議会です。議会は、上院はちょっと差が開いていますが、下院は5議席のリードにとどまっていて、中間選挙で大統領が所属する党が負ける可能性が高いことを考慮すると、2026年の中間選挙で下院がひっくり返るかもしれない。そうなると基本的には大きな法案を通せなくなります。
それから、井上さんがおっしゃった司法のお話はごもっともで、憲法の番人としての信頼をいかに失わせないか、そうした最高裁判事たちの矜持が作用する可能性は十分にあります。その上で、私はいま、リベラル派のソトマイヤー判事が体調を崩していて、トランプの任期中に辞めるかもしれないことを懸念しています。そうなると、またトランプが判事を任命しますから、現状6対3の構成から7対2とますます保守派有利になりますので、いくらロバーツ長官でも抵抗が難しくなります。
また、州が歯止めをかけられるというご指摘もおっしゃるとおりで、いまイーロン・マスクを擁するDOGE(政府効率化省)が進めている支出のカットの中には、地方への補助金も含まれていて、この歳出を削ると地方財政に影響がでます。共和党系の知事であっても自らの州の有権者たちを納得させなければなりませんから、その意味においても州が歯止めになる可能性があります。
ほかにも、経済要因も歯止めになり得るのではないでしょうか。たしかに今は、多少のインフレは仕方ないと言っているけれども、それは政策を打ち出した直後の言い分に過ぎず、この先、トランプ関税なり減税がインフレ亢進につながり、一般市民が経済のネガティブな影響を受けるようになるかもしれない。せっかくトランプに投票したのに失業したとか、物価高で満足に食料も買えないとか。そうなったときに噴き上がる国民からの反発が、トランプを抑止するカギになるかもしれません。
井上 トランプが勝ったことが本当に労働者のためになっているかどうか。これからよりはっきりするだろうけれども、すでに結果も出ています。政府効率化省が連邦政府職員のクビを大量に切っているだけではない。バイデン政権のときに連邦政府と契約している企業に従業員最低賃金を時給17・75ドルに引き上げることを大統領令で義務付けたのですが、トランプはこの規制を撤廃しました。米国労働人口の20%が連邦政府と契約する企業で働いていますから、民間企業労働者たちにも大きな影響が及ぶのは不可避です。トランプが掲げる減税と規制緩和は、イーロン・マスクら金持ち階級が喜ぶだけの政策にすぎないことが一般労働者の目にも見えてきています。
壊れるリベラリズム
渡辺 ここ15年ほど、アメリカは極度の政治不信と分断状況が続いていますが、そうした背景のもと誕生したオバマ政権が目指した「一つのアメリカ」ではアメリカをまとめることができず分断はますます深まっていきました。そうした政治不信と分断が定常化した環境のなかで育った今の若い世代からすると、民主主義が本当にいいものかどうかがわからなくなっています。民主主義イコール決まらない政治の象徴なのだ、と。
それならば、オバマとは反対に旗幟鮮明にし、多少強引にでも政策を前に進めるトランプ的手法の方が、若い世代の目には何かを変えてくれそうな期待感として映っています。そういった願望を煽る手段が「衝撃と畏怖」なのであれば、いよいよアメリカのリベラリズムが内側から壊れていくサイクルに入ってしまったのではないだろうか。今はそうした危惧を覚えます。
井上 渡辺さんの危機感は私も共有しています。先ほど私は司法の変化や州の抵抗が歯止めになり得るのではないかと言いましたが、だからといって「大丈夫だよ」と言うつもりはありません。放っておくと必ず大変なことになるんだから、評論家的姿勢はやめよう、と。今はシニカルに構えている場合じゃない、むしろ吠えていくべきなんだ、と。
いま、「リベラリズムは死んだ」と諦めているインテリたちもいます。そんなインテリにはあまり期待していない。それよりも普通の人びとが声をあげていく。そうした実践を私は期待しているし、呼びかけているんです。
渡辺 私は、コロナ禍という人の生命と財産を脅かす国家的な危機によって、少しは政治が求心力を取り戻すのではないか、社会の協調メカニズムが回復するのではないかと期待していましたが、蓋を開けてみると、マスクをするかしないか、3密を回避するか否かといった初歩的な予防対策でさえ意見がまとまらず、むしろそこが分断の材料になっているほどです。
アメリカの分断が極まった結果、トランピストたちは2021年の議会襲撃を実行した人たちのことを、自由と民主主義を守ろうとした英雄として見ているし、落選後に繰り返し起訴されたトランプのことを民主主義の殉教者なのだ、と。一方、反対の立場の人たちにとっては、起訴された人間が大統領になるのは許せない。これほどまでに現状認識が嚙み合わなくなった分断社会が、どのようにして求心力を回復していけるのだろうか。こういった状況は世界史的に見てもあまり類がないのではないでしょうか。
それこそ、ワイマール共和国は第一次大戦の莫大な賠償金を課され、経済的に追いこまれ、世論も分断していました。そうした状況のなかでナチスが台頭し、民主的な独裁が行われた。その後、ドイツは落ちるところまで落ち、絶望の淵から這い上がってきたわけですが。
ファシズムの形成過程
渡辺 ロバート・パクストン著『ファシズムの解剖学』(桜井書店、2009年)の中で、ファシズムというのはヒトラーもムッソリーニも、トップダウンでいきなり権力を掌握したのではなく、周りのエリートたちが彼らを独裁者に仕上げていったと指摘されています。先ほどのお話にあった「electoral dictator」にもつながりますが、トランプ党化した共和党議員の心理を推し量ると、トランプに攻撃されるのが怖いという思いがあり、同時にトランピズムをもっと徹底しろという支持者の声にも耳を傾けなければいけないから、どうしてもトランプに迎合せざるを得なくなる。そうなると、ますますトランプに権力が集中していくので、まさにファシズムの形成過程に沿う形で、アメリカも民主的に独裁化していく道をたどるような気がしますし、結果ドイツのように落ちるところまで落ちるのだろうかと考えてしまいます。
井上 ワイマール共和国の経済が崩壊した結果、一般大衆が貧窮化しただけでなくドイツ教養層といわれる中流層も没落し、ナチスが生まれた。そう考えると、ユダヤ人を生贄の羊にして大衆を動員し、「民主的な独裁」を実現したヒットラーと、不法移民を生贄の羊にして疎外された労働者大衆を動員したトランプⅡのやり方は構造的にほとんどパラレルだよね。ポピュリスト的独裁を抑制するリベラルな価値、立憲主義、法の支配を支えてきたのは分厚い中流層ですが、そこが崩壊している構図も、ナチスドイツとトランプⅡでは共通しています。
アメリカの分厚い中流層が崩壊した要因は、階層移動ができなくなってしまったからです。今は大学の授業料が本当に高くなっていますから、高所得エリート層の子どもは大学に進学することができ、再びエリート層の一員になれるけど、下層出身の子どもは大学への進学が叶わないので、引き続き下層のまま。そうした現状なので、いわゆるアメリカンドリームがなくなってしまいました。アメリカはもともと格差が大きかったけれど、以前は大学を出ていない親の子どもであっても、努力をすれば大学に進学でき、成功をおさめる可能性が高かったので下から上への階層移動を実現できた。これがあったからアメリカはフェアな国だと思われてきたけれども、今はその感覚がなくなってきています。
渡辺 現在のアメリカは、格差の拡大、民意の分断と相まって、一部の巨大な企業家が影響力を握り、金が政治を動かしています。まさに、資本主義と民主主義の根本的な矛盾が露呈してきている状態だといえるわけですが、果たしてそれは修正可能なのだろうか。
あるいは、従来はテレビやラジオ、新聞といった限られたメディアがある程度情報をスクリーニングし、そこで作られたイメージをある種の共同幻想のようにして国民に共有することができたからこそ、ネーションを支えることができた部分がありましたが、今は全国民がメディアとなり、本物か偽物かわからないような情報が氾濫しています。そうしたなかで情報の受け手はフィルターバブル化するので、ますます世論の分断に拍車がかかる。このような情報を取り巻く状況も、民意を前提とした民主主義とは根本的に相性が悪いのかもしれません。
ほかにも、人口動態的な多様性にどこまで耐えうるのかという問題もあり、民主主義を取り巻く問題が、アメリカのいたるところで顕在化してきています。トクヴィルは『アメリカの民主政治 上・中・下』(講談社学術文庫、1987年)の中で、「アメリカにおいてアメリカ以上のものを見た」と述べていますが、もしかしたら今の私たちが見ているものも、「アメリカ以上の何か」なのではないでしょうか。
それから、これはもう少し大きな話ですが、市民が主体的にまとまり統治をしていく民主主義が、古代の都市国家よりはるかに大きいアメリカでも、建国以来250年にわたって維持できました。ところが、これまでの2、3世紀はある種の資本主義との相性の良さも相まって、たまたまうまく機能できただけだったのだろうかという気さえしてきます。
プーチンの足元を見よ
渡辺 ちょっと前まで、時代はモダンを超えてポストモダンになったと言われてきましたが、今の状況を眺めてみると、時代はむしろプレモダンに戻っていっているのではないでしょうか。少なくとも、ロシアがウクライナを侵攻するというプレモダンのような事態を、21世紀のポストモダンの時代に目撃するなんて思いもよりませんでした。
井上 プレモダンどころか、拙著『悪が勝つのか?』第3章で触れているように、古代アテーナイのメロース島略奪戦争の現代的復活ですよ。
対露融和主義者たちは、西側にウクライナ支援を止めろと言うけど、ロシア国民にプーチンの侵略を止めさせろとは言わない。ロシア国民はプーチンの言いなりで変わりっこないんだ、と。でも、考えてみてほしい。1917年、ロシア人は絶対不動と思われたツァーリの専制体制を革命で打倒した。そして、1991年、ツァーリ体制なんかよりはるかにガチガチに国民を統制したソビエト連邦の共産主義体制が崩壊し、ロシアも民主化した。20世紀にロシアは2度もラディカルな革命を遂行している。革命は前衛が指導するとしても民衆が蜂起し支持しなければ成功しない。この近過去のロシアの現代史を見るなら、冷戦崩壊後のロシアの民主化を専制政治に逆戻りさせようとしているプーチンを止める政治変革が、なんで、今のロシアで起こらないなどと言えるのか。
今のところ、モスクワの中産階級は経済的にはそれほど困っていません。高い給料をもらえるからと志願兵になるのは貧しい人だけど、戦争開始時は1日に900人といわれた志願兵の数が、現在は500~600人まで減ってきています。1日に消耗している兵力が約1500人ですから、それだけでは到底埋め合わせられない。そうなると、周辺の少数民族に対して行っていた徴兵の戦地派遣を、ロシア中心部でも拡大する必要がありますが、それをやると国民の怒りが爆発する。それは怖くてできないから、今は北朝鮮の兵士で補っている状況ですが、これだっていつまでも続けられないんですよ。
つまり、ロシアは最後の余力を絞ってやっている状態です。しかし、これはもって1年か2年だろうと言われていて、それ以上続けると国内のマグマが噴火する。ロシアの民衆を馬鹿にはできません。今は何か言うと弾圧されるから、ひそひそ話程度かもしれないけど、このままいくと自分や家族の身が危ないとなったら、必ず何かが起こります。
私は、そういう民衆の変革力はアメリカのみならず、ロシアにもあると信じています。民衆はバカだとエリートは言うけど、そういうお前らエリートこそバカだと言いたい。民衆はバカなこともするけど、自分の愚行で痛い思いをしてそこから学ぶ力をもっており、自分の愚を認めたがらない己惚れたエリートこそ危ないのです。
渡辺 ロシア人がひそひそ話をするようになることにひとつの希望があると、本書にも書かれていますよね。
井上 はっきり言うけど、ロシアは相当やばい状況ですよ。それなのに、対露融和主義者がロシアの認知戦に乗って、ロシアの兵力や火力は無限にあると講釈をたれている。本当はそうではない。いかに経済的にも軍事的にも消耗しているかという事実を本書に書いたんですよ。
ウクライナはいま、領土問題は、現状の戦線をとりあえず凍結し将来の政治的交渉対象にすると妥協の姿勢を示している。ただし前提条件として、NATOによる安全保障を求めているわけです。それがなければ恒久的停戦には応じられない、と。それは当然ですよ。それがなければプーチンはまた停戦合意を無視して再侵攻するでしょうから。仮にNATOによる安全保障が約束されないのならば、二国間安全保障条約のネットワークを作るべきです。つまり、今のウクライナを朝鮮戦争のモデルで考えよう、と。
韓国と北朝鮮は今でも38度線を挟んだ事実上の停戦状態ですが、なぜこの状態が維持できているかというと、米韓相互防衛条約を結び、米軍を韓国に駐留させているからです。この安全保障があったから、韓国は38度線で同意できた。トランプにはそのことを思い出せと言いたい。
ウクライナは西側との安全保障条約を結ばないまま、ブダペスト合意を締結して核兵器をロシアに移管したために、ロシアはウクライナの領土と主権を尊重するという合意内容を無視して、2014年にクリミア半島を奪い、ドンバス地方に軍事介入してきた。いくら紙の上で停戦合意をしてもプーチンが守るはずがないことは火を見るより明らか。停戦合意を守らせるために必要なのは、「お前、守らなきゃ痛い目を見るぞ!」という強い姿勢なんですよ。
そしてロシアが弱っている今こそ、プーチンを叩く絶好のチャンスです。欧米の専門家たちも、プーチンは軍事的に追い込まれなければ停戦交渉にまともに応じないと言っている。それなのにトランプは、プーチンに塩を送るようなことしか言わない。私は、トランプの倫理観には期待してないから、彼の利己心に訴えて、こう言ってます。トランプよ、お前は強い政治リーダーとして歴史に名を残したいんだろ。それなのに今のままだったら、プーチンに手玉に取られた無能で弱い大統領として歴史に汚名を残すぞ、と。
渡辺 おっしゃるとおり、プーチンに対しては不自然に甘いですよね。ただ、それは2016年の頃からずっとですけれども。
トランプとしては経済的権益と結びつけるほうが手を打ちやすいでしょうから、たとえばウクライナのレアアースの権益を守るという名目で、アメリカが何かしらの安全保障をする、と。アメリカのプレゼンスが及ぶ限りは、いくらプーチンとはいえ極端なことはしてこないでしょうから。とはいえ、対応としては弱いですよね。
井上 そういう見方もあるけれども、結局は困っている相手の弱みにつけ込んだゆすりたかりにすぎません。
渡辺 国務長官のマルコ・ルビオは以前、プーチンのことを病的な噓つきと言っていましたが、そういう本来の共和党的な姿勢を持っている人にもう少しスピークアップしてもらいたいところです。
井上 いま、ロシア国内の民主化運動を抑え込もうとしているプーチンに対して、ロシアの若い世代は嫌気をさしていて、特に高学歴の若者たちが逃げだしています。トランプよ、そういうプーチンの足元をちゃんと見ろ、と。いまお前が強く出なければならないのは、再侵攻抑止のための安全保障さえあれば妥協をすると言っているゼレンスキーの方ではなく、無条件降伏しか認めないと強気な姿勢を崩さないプーチンの方なんだよ。こいつを停戦交渉のテーブルにつかせるために、軍事的にもっと追い詰めなければいけない。お前が本当にディールの天才なんだったら、ちょっと計算すればわかるはずだろ。
渡辺 井上さんもおっしゃったとおり、今が絶好のチャンスですよね。
二国家解決のために
渡辺 ところで、ガザをめぐる情勢もまた怪しくなってきていますよね。
井上さんが本書で書かれているように、私も究極的には二国家解決しかないと思っています。ただ、イランが反米反イスラエルを国是に掲げている以上、イスラエル側の言い分は飲めないし、イスラエルも国内の右派の人たちがパレスチナ国家はありえないという態度を崩さない。むしろアメリカがもっとイニシアチブを取るべきだという意見もあって、それはもっともなんだけど、キリスト教保守派の圧力もあり、結局はイスラエルの判断を尊重するという立場です。もしかすると、今回の停戦で短期的には事態が収まるかもしれないけれども、長期的にはまとまらない気がしています。
井上 私がなんで今回の停戦合意はダメだと言っているのか。理由は戦後のガザ統治計画がゼロだからです。誰が、どうやってガザの治安を維持するのか。これをはっきりさせないことには、たとえハマースを殲滅させたとしても、次から次に別の組織が出てきます。その上で、本書でもガザをめぐっては二国家解決しか道がないと書きました。
ただし、最終的には二国家解決に進むべきであるとはいえ、今のパレスチナ自治政府は腐敗堕落しているから、すぐには任せられない。かといって、暫定的な統治主体にアメリカが入ったら、アラブ諸国からの反発を招く。だから私は、アラブ諸国連合によるアラブ平和維持軍に暫定的な統治を委ね、その間にパレスチナ自治政府の腐敗した連中を追い出して、組織改革をし、人を育てていきながら、ちゃんとした政府をつくるべきだと考えています。そして、ようやくパレスチナ人による統一政府が機能するようになったら自治を任せる。
時間はかかるかもしれないけれども、このロードマップをきちんと描けばアラブ諸国は協力しますよ。それに、この案はイスラエルにとっても、ガザの戦後復興にかかる費用を節減でき、その点でもいいことです。ですから、まずはパレスチナ国家建設を到達目標として承認する。それがなければ、アラブ諸国連合にもサウジアラビアにも断られるでしょう。
仮に、イスラエルがガザを占領統治したらどうなるか。ゲリラ戦がずっと続くだけ。アラブ平和維持軍の協力さえあれば、そんなことにはならないし、軍事的コストも回避できるわけだ。それに、かねてよりイスラエルがやりたかった、豊かなアラブ諸国との経済的交流だって進む。なおかつ、イラン嫌いのアラブ諸国との反イラン安全保障網だって構築できるようになるのだから、いいことずくめですよ。
では、なんでそれをやらないか。結局、ネタニヤフの政治的保身のためです。それをやっちゃうと、右翼の支持を失い次の選挙に勝てなくなるし、司法的な追及もうけます。イスラエルの国民のなかにも問題点を理解している人はいますが、多数派は現時点ではカッカしていますね。二国家解決を唱導しているごく穏健な学校の先生が、同僚のみならず生徒たちから吊し上げをくらっている映像をみて、私はショックを受けました。
イスラエルの一般の市民たちがいま好戦化しているのは、ハマースによる侵攻計画にイランとヒズボラが事前に緊密に関わっていたことを示す秘密会議文書が見つかったからです。当初はイランもヒズボラもハマースによる侵攻を知らなかったと言ってたが、そうではなかった。イスラエル殲滅の意図が明確にあり、しかも過激なイスラム原理主義的なイデオロギーに基づく、中東支配を目論んでいた。そうした計画が明るみになったことで、穏健派だったガンツ前国防相まで強硬論に傾いてしまった。ですから、この状況はしばらく収まらないでしょうね。
渡辺 本書にも書かれていますが、ハマースも結局、ガザの人たちを盾にしながら、上級幹部は海外で特権的な暮らしをしているわけですから、相当歪んでいますよね。
それに、これまでアラブ諸国がパレスチナの問題に関心を払ってきたかというと、そうでもない。今回も様々な理由を挙げながら、ガザの難民の一時的な受け入れすら拒否している。だけど、今こそアラブの大義を示し、パレスチナに対してもっとコンパッションを持つべきだと言いたいです。いずれにしても、嫌なものがいろいろ見えてきますね。(おわり)
★いのうえ・たつお=東京大学名誉教授・法哲学。著書に『ウクライナ戦争と向き合う』『生ける世界の法と哲学』『立憲主義という企て』『自由の秩序』『世界正義論』など。一九五四年生。
★わたなべ・やすし=慶應義塾大学SFC教授・文化人類学。著書に『アメリカとは何か』『リバタリアニズム』など。一九六七年生。
書籍
書籍名 | 悪が勝つのか?ウクライナ、パレスチナ、そして世界の未来のために |
ISBN13 | 9784797283457 |
ISBN10 | 4797283459 |