2025/03/21号 6面

三月一一日のシューベルト

三月一一日のシューベルト 舩木 篤也著 小宮 正安  饒舌な書評をすることが恥ずかしくなる、凛とした佇まいの一冊だ。  かつて『レコード芸術』に連載されていた頃の一連の初稿(本書ではそれらを大幅に改定)では、『コントラプンクテ』というメインタイトルだった。コントラプンクテとは、日本語にすると「対位法」。複数の旋律を調和させ、重ね合わせてゆく音楽上の技法を指す。  その名残を示すのが、本書の各章に付けられたサブタイトルだ。『ヴェニスに死す』つながりで「グスタフ・マーラー(一八六〇~一九一一)×トーマス・マン(一八七五~一九五五)」は分かるとしても、「アーノルト・シェーンベルク(一八七四~一九五一)×若尾文子(一九三三~)」となると意外性に虚を突かれる。つまるところ、地域も時代も異なる、時には思ってもいなかったもの同士を組み合わせ、そこから生まれる新たな視点を築こうというのが著者の狙いに他ならない。  となれば「どうだ」と言わんばかりの態度で、昨今流行りの派手派手しい語り口が出て来てもおかしくはなさそうだが、本書はそれとは全く異なる方向性を行く。強烈なフォルテや激烈なアクセントで相手の度肝を抜くのではない。静謐なピアノを基本とし、時に聴きとれるか聴きとれないかのかすかな、しかし鋭さを込めたピアニッシモが混ざることで、知らず知らずのうちに読み手は背筋を伸ばし、文章に向き合っている。  それもこれも、いかに斬新なものであろうと「ある種の無頓着が、決まり文句のオートマティズムが」いつの間にか忍び寄り、無批判に受容されてゆくことに、著者が違和感を抱き続けているからだろう(第20章『違和感のゆくえ』より)。なおこの章とは異なるが、「私たちは、インターネット上の『いいね!』ボタンを押すノリで、芸術はいいもの、文化はいいもの、きれいなもの、すてきなものと、無反省に了解している」という一文(第1章『了解と戦いと』)も、それを明確に物語る。  ところがこうした状況を見つめながらも、著者は諦めずに言葉を紡ぎ続ける。またそのような作業を通じて浮き彫りにされるのは、抽象言語である音楽作品に潜む密かなメッセージ、さらにはそうしたメッセージを掘り起こそうとする演奏家への深い敬意に他ならない。例えばブラームスのヴァイオリン・ソナタ第1番の第2楽章に秘められた葬送行進曲の要素を指摘した、老演奏家に関するくだり。「何らかの口伝に従ったわけではあるまい。資料にも、標語にも頼ることなく、音楽の核心を、『慰め』の本質をつかんだに違いない。」(第2章『メメント・モリ』)  『三月一一日のシューベルト』というタイトルに見られるように、本書には東日本大震災、広島の原爆、コロナ・パンデミック、そして親しい人の死など数多くの痛ましい出来事が書かれている。またそれに対して向き合わなければならないはずの私たちが、どうしても向き会えないというもどかしいまでの葛藤も。だが、亡き母を追悼した一文「感傷的になりがちな私の性分に、一滴でもフモールが具わっているとしたら、それは母のおかげである」(第18章『「女学生」の思い出』)が端的に物語るように、「静謐な哀しみ」などという陳腐な表現をするりと抜け出るユーモアも、時折顔を覗かせる。  各章の文末に挙げられた膨大な参考文献を眺めただけでも分かるように、単なる感性だけでなく、様々な「知識」に基づいて本書が執筆されていることは明らかだ。だがそうした「知識」を踏まえながらもそこに拘泥せず、最後は音楽を語るという行為を通じて、すべてを自由に解き放つ。西洋に生まれた文化を、日本語で語ることの困難さと、それゆえの魅力を満載した、新たなスタイルの音楽評論の誕生に他ならない。  なおそれが可能になったのも、最終章のタイトル『とんぼの眼鏡で』にも示されているように、著者自身が2つの異なる世界を行き来する視点を常に意識しているから。そうした視点を通じて語られるのは、硬直化への道を進む世界にあって「もう失われているかもしれないのに、この私には失われていない、ある『感じ』」を具えた、音楽の魅力である。(こみや・まさやす=横浜国立大学教授・ヨーロッパ文化史・ドイツ文学)  ★ふなき・あつや=音楽評論家。共著に『魅惑のオペラ・特別版 ニーベルングの指環』『地球音楽ライブラリー ヘルベルト・フォン・カラヤン』など、共訳書に『アドルノ 音楽・メディア論』など。一九六七年生。

書籍

書籍名 三月一一日のシューベルト
ISBN13 9784276210141
ISBN10 4276210143