2025/02/21号 6面

死の仕事師たち

死の仕事師たち ヘイリー・キャンベル著 西貝 怜  本書では、葬儀についての総合的な技能を持つ「葬送ディレクター」、遺族のために遺体を修復する「エンバーマー」、「死刑執行人」、「死体現場清掃業者」などの人の死を「生業」とした専門職――「死の仕事師」たちごとに、本編12章の各章が割り当てられている。そこで語られるのは、「死の仕事師」たちの仕事内容はもちろんのこと、仕事と精神の関係である。さらに彼らとの対話を踏まえた著者の縦横無尽な思索に、かなりの紙幅が割かれている。本編だけでなく「はじめに」「おわりに」をふくめて、このような仕事と思索の関係から見ていく。  著者が「学校」に通っていた頃、通学路で鳥が死ぬと、「死骸が腐り終えるまで通学ルートが変更された」。しかし、著者は「死臭を放つ鳥の顔」を見ることを求め「その禁じられた通学路をいつも選んで歩いていた」。また、著者は一二歳の時に友人の死を経験する。その葬儀で友達の死体を見ることは叶わなかった。このような死を秘匿するような、社会の死の接し方に著者は疑問を持つ。そして、 自身が「質問することを生業」とするジャーナリストとして、「死の仕事師」たちが「仕事としてどうこなしている」のかを調査し、「死の概念を」「自分で取り扱えるものに縮小させたいと思った」。このように「はじめに」では書かれている。  本編の全12章から、今回は「1 死の淵――葬送ディレクター」を取り上げる。かの哲学者ベンサムの通夜に著者は参加した。それを取り仕切る葬送ディレクター、ポピーにこの章では注目している。その通夜の時にポピーは「生まれて初めて目にする死体は、大切な人の死体であるべきではありません」、たとえば「児童たち」を「遺体安置室」に案内して「死体を見せてあげ」て、「死体を目の当たりにするショックと、死別の悲しみのショックは別々に受けるようにしておくべき」と述べた。これを聞いて著者は、これまで知人や友人の葬儀で、一度も死体を見せてもらえなかったことを思い出すと同時に、幼少期にポピーに出会っていたら自分の考えは変わっていただろうと推測する。  そしてベンサムの通夜の後、ポピーへのインタビューを経て、著者も「遺体安置室」に関する仕事の一部を体験する。ポピーとのやり取りと異なり、この仕事内容についての場面は事実、すなわち正確で細かな事象の記述が心掛けられている。「遺体安置室」に関する職業体験の後、著者は帰宅するために地下鉄に乗る。この時、他の乗客の死を考えたり、時計の音がいつもより大きく感じたという。最後に「死の仕事師」の仕事と精神に触れたことで自分がどのように変わったか語られて、この章は閉じられる。同様に大体すべての章で、著者自身の経験や考えと絡めて「死の仕事師」のインタビュー結果を提示し、仕事の参与観察も行いこれも詳述し、その後に自分がどのように変わったのかが語られる。  実は「あとがき」も殺人捜査課の刑事へのインタビューからはじまる。そして本書の執筆を進める過程で、死についてすべてを扱うことは困難で、専門職のように分担してならば関われると著者は気付いたと述べる。さらに、このような限界についての視点を個人的な死とのかかわりまで広げて考察を展開している。死への思い込みは個人の限界ではあるが、これは社会や文化から決められるべきでないと主張した上で、著者自身の限界の話も展開されていく。ほかにも「死の仕事師」たちとの交流を通して得た様々な気付きや思索が述べられる。  「はじめに」と「おわりに」で「死の仕事師」たちのルポルタージュが挟まれていることにこそ、本書の価値がある。「死の仕事師」たちとの交流を経て、著者個人の経験や感覚を大事にしながら文学を絡めた思索まで見られる本書は、著者が死を「縮小」して捉えられるようになるまでの私小説、あるいはビルドゥングスロマンとしてのルポルタージュと私は捉えた。独自の方法で読者自身の思索も促される、斬新で面白い本であった。(吉田俊太郎訳)(にしがい・さとし=東京理科大学教養教育研究院葛飾キャンパス教養部講師・科学文化論)  ★ヘイリー・キャンベル=作家・ブロードキャスター・ジャーナリスト。ワイアード誌、ガーディアン紙、ニュー・ステイツマン誌、エンパイア誌をはじめとする多数のメディアに寄稿。ロンドン在住。

書籍

書籍名 死の仕事師たち
ISBN13 9784826902656
ISBN10 4826902654