- ジャンル:民俗学・人類学・考古学
- 著者/編者: 倉本知明
- 評者: 山田明広
フォルモサ南方奇譚
倉本 知明著
山田 明広
本書は、高雄市に住む著者が中古のバイクに乗って高雄や屏東を中心とする地域を訪れてはそこの民俗文化や歴史等を収集・記録し、その記録を一冊の書にまとめたものである。
著者はかつて外省人二世作家の文学に触れたことがきっかけで台湾現代文学の研究者となった。この外省人二世作家の作品には、戒厳令下、反共復国思想のもと、中国大陸の「故郷」に帰ることを夢見ていた人々が、国民党独裁体制の崩壊とともにその「故郷」が虚構であることに気付き、「台湾」という現実の故郷へと足を踏み入れていこうとする物語が描かれている。そして、いつしか著者はこの物語と日本を離れ、長年台湾に住む自身を重ねるようになる。特に、日台間を行き来できなくなったコロナ禍においてそのことを強く感じるようになった。自身が今後台湾で生きていくために、何をすべきか。そう考え、自らの住む範囲である高雄や屏東を中心とする地域の民俗文化や歴史等を集め記録することに行きついたのである。
なぜ高雄や屏東が中心なのかというと、日本の台湾関連書籍の出版状況は、首都・台北および古都・台南関連のものにどうしても偏っており、ともすれば、日本人の台湾理解は単一となりがちである。そこで、歴史的に重要な役割を果たしてきた高雄や屏東といった地域の情報を提供し、台湾は実際には重層的な表情を持っているということを日本の読者に知ってもらいたいと考えたからである。
さて、本書は全一七章に加えて各章末には怪談風のコラムが合計一七付された構成となっている。紙幅の関係上、各章の内容を逐一示すということはしないが、本書が語ろうとしているのは、天朝体制下における義民に逆賊、文明人を自任する西洋人の山師に「野蛮」な原住民の頭目、日本の人類学者に英国の博物学者、異神としての牛頭天王に瘟神としての王爺、そして帝国日本の支配に抵抗した「土匪」や共産主義者など、歴史と奇譚の間にはまり込んでしまった様々な「いま」である。この「いま」とは、著者が南台湾の地で出会ってきた人々の言葉であり、伝説や奇譚として歴史の外側に止まり続けてきたものである。著者はこれらを集め世に示していくことに異邦人としての自身と台湾との絆を見出しているのである。
もっとも、本書において、著者はただただ各地を回って見聞したことを述べているだけではない。多くの関連する専門書を紐解いて徹底的に調べ、解説を加えるなど、日本人読者の理解に資するような工夫を施してもいる。例えば、第十四章「神を燃やす」では、台湾で盛んに信仰されている「王爺」という疫病神およびその祭りについて語られているが、その中で、著者は、「王爺」は道教の経典や神話には現れない民間信仰の一種であると述べている。現地の人でさえ往々にして道教の神として扱いがちである「王爺」をこのように断定できるのは、専門書を紐解き徹底的に調べた証であると言えよう。また、本章では、時折、日本の疫病神である牛頭天王や疫病封じの妖怪であるアマビエなどが引き合いに出されている。日本の類似の事例を持ち出すのも正に日本人読者の理解に資した工夫の一つであろう。
このほか、例えば、第十一章「1871漂流民狂詩曲」における琉球漂流民同士の会話のように、資料には現れていないであろう部分が想像によりさながら歴史小説のように仕立てられていたり、また、第十三章「「鬼」をもって神兵となす」では、幼い時に祖父が著者に向けて語った内容が讃岐弁でそのまま表わされたりもしている。さらに、巧みな比喩表現や対比表現を駆使した描写も随所で見られる。これらのいわば文学的工夫により、ただただ資料に基づいた説明的描写だけがなされるよりも数段読みやすく、また文学作品として楽しみながら読めるようにもなっている。
本書は、「奇譚」と銘打ってはいるものの、南台湾における民族や言語の複雑さ、信仰の多様性、そして何よりも絶えずやって来た外来の支配者との攻防といった高度な内容を多く含んでいる。しかし、前述のような種々の工夫のおかげで、無理なく読めるようになっている。台湾好きの読者には是非とも本書を手に取り、台湾の重層性に触れてもらいたい。(やまだ・あきひろ=奈良学園大学人間教育学部准教授・道教儀礼)
★くらもと・ともあき=文藻外語大学准教授・
台湾の現代文学。二〇一〇年から台湾在住。台湾文学翻訳家としても活動。訳書に蘇偉貞『沈黙の島』、伊格言『グラウンド・ゼロ 台湾第四原発事故』、王聡威『ここにいる』、呉明益『眠りの航路』、郭強生『ピアノを尋ねて』など。一九八二年生。
書籍
書籍名 | フォルモサ南方奇譚 |
ISBN13 | 9784393424636 |
ISBN10 | 4393424638 |