2025/06/20号 1面

対談=島田 裕巳×斎藤 哲也<私たちはAIと何を語るか>

対談=島田 裕巳×斎藤 哲也 <私たちはAIと何を語るか>  生成AIが急速に普及し、私たちの生活や仕事のあり方に変化をもたらしている。その実態や可能性をどのように捉えればよいのか。宗教学者の島田裕巳さんと人文ライターの斎藤哲也さんに、実際の活用事例も交えつつ、生成AIとの付き合い方や今後の書評のあり方など、さまざまな角度から議論していただいた。(編集部)  島田 私が生成AIを本格的に使い始めたのは、ほんの2か月前からです。それこそきっかけは、斎藤さんから「ChatGPTの有料プランを使っている」という話を聞いたからです。前にも生成AIを触ったことはあったのですが、その頃はまったく使いものにならなくて、以降は離れてしまっていた。でも、斎藤さんが使っているということは役に立つんだろうと思い、あらためて試してみたんです。すると、非常に興味深かった。  私が使っているのはGoogleのAIであるGeminiで、月額3千円くらいのアドバンスプランを契約しています。まだまだ使いこなしているとは言えないけれど、それでも今や仕事に不可欠の存在になっています。  斎藤 僕が生成AIを触り始めたのは、2023年の2月頃です。世間でも話題になり始めたタイミングですね。ただ、その頃は仕事で使うにはちょっと頼りない存在で、特に調べものにはまったく向いていなかった。そこから徐々に要約などの精度が向上しはじめ、扱える情報量や出力できる文章が格段に増えました。リサーチ力もかなり改善されて、今ではChatGPTでもGeminiでも、ディープリサーチ機能を使えばある程度しっかりした情報を引き出してくれる。この数年で、驚くくらい性能が進化しています。  僕が主に使うのはChatGPTで、月額3万円のProプランを契約しています。Proプランと、その他のプラン(無料プラン、月額3千円のPlusプラン)の一番の違いは、ディープリサーチ機能を使える回数です。月額3万円は高いと最初は感じたのですが、実際、Proプランで調べ物をさせたら、とんでもない情報量を一気に出力してくる。島田さんに「これはすごいですよ」とお話ししたのも、その頃だったと思います。有料にする価値はあると思いますが月額3万円は高いし、無料プランはすぐに制限がかかってしまうので、僕としてはPlusプランがおすすめです。  島田 もはや家にシンクタンクがあるような感じですからね。生成AIが飛躍的に進化したと斎藤さんが感じた瞬間は、いつでしたか。  斎藤 僕はライターなので、インタビューや対談を構成するのが日々の仕事です。通常、文字起こしをある程度整形して、そこから本格的な構成をするわけですが、2023年の4月くらいには、整形くらいなら使えるようになってきました。そこでまず驚きましたね。さらに今年の2月に、ある仕事で大学出版部の歴史をChatGPTのディープリサーチを使って調べたんです。それがあまりに詳細なレポートになっていて衝撃を受けました。島田さんはAIに対して、いつから関心があったのでしょうか。  島田 今は宗教をメインに扱っていますが、そもそも私の研究の関心はコンピューターが出発点になっています。私の初めての著書は、1989年に刊行した『私というメディア』という本です。当時は放送教育開発センターに勤めていて、ちょうどコンピューターを本格的に仕事として扱い始めた時期だった。その流れで、TRONプロジェクトを進めていた坂村健さんと知り合い、日本で初めてハッカーをつかまえた早野龍五さん、インターネット黎明期を支えた村井純さんと出会ったこともあります。  『私というメディア』は、坂村さんの勧めでまとめた本です。その中で、「個人の道具」としてのコンピューターの可能性に着目した「パーソナルメディア論」を展開しました。時代的な背景もあって、そこではさすがにインターネットにはあまり深く触れられていない。でも、1990年代前後に考えていた「私というメディア」という概念と、現在の生成AIの発展は結びついているように感じます。  斎藤 最近の情報社会論では、人間の主体性に疑問符を突きつけるようなものが多いですよね。私たちはアルゴリズムに操作されやすくなっている、と。SNSなどはその典型でしょう。そんな状況で、今の生成AIは対話形式をとっている。これは、ひとつ重要なポイントだと僕は思っています。対話というパーソナルに関わる行為を通して、もしかすると人間の理性的な部分が少しは立ち上がってくるのではないか。  AIは感情的にならないので、対話相手として本当に優秀です。実際、僕自身は生成AIを使い始めたことで、SNSに使う時間がめっきり減った。SNSを眺めているよりも、生成AIとやり取りしているほうが面白いからです。指示にもよりますが、相談のような対話的なやり取りであれば、生成AIは穏やかで丁寧な語り口で返してくる。こちらがつい乱暴な口調になっても丁寧に解答してくるので、だんだん自分が恥ずかしくなってきたりもします。  ちょっとした言葉やすれ違いがきっかけで、やり取りがどんどんエスカレートしてしまうことのある人間同士の会話だと、そうはいかない。相手が感情的にならないからこそ、こちらも怒りを抑えられたり、自分の態度を省みることができます。これは、AIとのコミュニケーションならではの現象ですね。  島田 気持ちよく対話ができるというのは、最近のAIが人を惹きつける大きな理由でしょう。AIほどの知識を持ち、決して感情的にならずにこちらの意図をくみ取ってくれる人間は多分いません。生成AIと対話を重ねていると、改めて腹を立てないことの意味を考えさせられる。怒りのない社会こそが、私たちが目指すべき理想的な世界のようにも思えたりします。  トマス・アクィナスが『神学大全』の中で述べるように、中世哲学では「知性」を3段階――神の知性、天使の知性、人間の知性――に分けて考えています。AIは明らかに人間を超えた部分を持っているけれど、物理的に物を動かすことはできないので神ではない。おそらく最近の生成AIは、「天使の知性」に近い存在です。  人間を超えた領域に、新しい知性のあり方が生み出された。その知性との対話を通して、私たち人間も変わらざるを得なくなるでしょう。今のままでは、対話の相手として人間は物足りない存在になってしまうかもしれません。  島田 話が変わりますが、斎藤さんはAIをどのように使うことが多いですか。  斎藤 去年までは、さきほど言ったように、インタビューや対談の構成補助でよく使ってました。AIによる文字起こしの精度も、以前と比べると随分向上しています。ただ、文字起こしのままだと、舌足らずなところがあったり、話が脱線したり散らかったりします。それをある程度読みやすく整えるフェーズでAIを使うと、スムーズに調整してくれる。もちろん人間の手による構成は必須で、そこにライターの腕が問われますけどね。島田さんはいかがですか。  島田 私のスマホはAndroidなので、Googleのレコーダーというアプリが入っています。それで録音すると、話し終えた瞬間にかなり正確な文字起こしができあがっている。その原稿をGeminiに送って整えてもらうと、そこそこ使えるレベルの文章が返ってきます。最近は自分の講演をこの方法で原稿化し、noteに公開したりしていますね。  それから私は、講演を行う際にアイデアをAIと相談することがあります。たとえば「伊勢神宮の遷宮について、90分の講義を組み立てたい」と投げかけると、内容を組み立ててくれる。実は今日の対談についても、斎藤さんとどんな話になるか事前にAIに相談してきました。  斎藤 何を出力してきたか気になります(笑)。  島田 あくまで素案レベルではありますけどね。生成AIが一般に普及し始めて以降、Web検索件数が減ってGoogleが困っているという話もあります。それも当然で、なぜならGeminiに尋ねた方が、従来の検索よりもはるかに多くの情報が得られる。「回答が必ずしも正しいとは限りません」といった注意付きはあるにせよ、インターネット上での調査能力は人間が敵わないところまで到達しています。  日本語に限らず、海外の情報にもアクセスできるというところが特に大きい。世界における宗教の現状や変化を知るには、かつては大規模な現地調査をするしかなかったというか、できなかった。しかし今は、「アフリカでの宗教状況はどうなっているか」「現在のカトリックの動向」といった問いに対し、AIのディープリサーチを使うと海外の情報源にあたってくれます。日本語の文献だけではたどりつけないような情報にも、アクセスしてくれる。調査のスケールが広がったので、ものごとをまったく違う視点から見ることができるようになりました。AIが進化したことで、「調べる」という行為の質も変わってきているように感じます。  斎藤 研究者と話していると、いわゆる難関大学の学生ほど、生成AIを積極的に使っているという話を耳にします。実際、僕が非常勤で教えている大学はそこまで難易度が高いところではなく、ほとんどの学生がAIを使っていない。正直、AIを使えばすぐにこなせるような課題でも、みんな律儀に取り組んでいる。それはそれで大切なことではあるけれど、学生のうちからAIの活用格差が生まれてしまっているのではないかという懸念もあります。  格差に関しては、利用料金によるサービスの差も気になっています。最初に話した通り、ChatGPTでいうと無料か有料かで使える機能に明らかな違いがある。とくに経済的な余裕がある人ほど、より高度なAIサービスにアクセスできるので、得られる情報自体に格差が生まれくるんじゃないでしょうか。  島田 情報格差は、確実に開いていますね。ディープリサーチを使ってAIに調べものをさせると、どういう順番でどう考えているのか、思考の流れを追うことができます。それが、私自身のリサーチのプロセスとほぼ同じだったりする。あまりにも思考パターンが似ていて、AIが私自身のように思える時もあります。ただし本来、この思考プロセスを人間が獲得するのは非常に大変なことです。研究者たちが何年もかけて得る思考回路なわけですからね。  翻って考えると、生成AIを使いこなすには、かなり高度な技術や思考力が求められる。将棋の世界を思い浮かべると分かりやすく、藤井聡太さんのような天才はAIを自在に使いこなし、まさに人間離れした戦い方をしています。AIを使いこなす天才がいる一方で、AIに触れられない環境にいる人たちは、ますます取り残されているのが現状です。  島田 これを解消するには、教育の在り方そのものを根本的に変えていく必要がある。レポート課題ひとつとっても、今になると生成AIに書かせる学生がいる前提で、何を出すか教員側が考えなければならないでしょう。教育の現場も、倫理や評価の枠組みを含めて、揺さぶられ始めています。  斎藤 生成AIの検出ツールもあるようですが、いたちごっこでしょうね。現場の教員だって、使っているわけだから、使うことを前提にした教育をしたほうがいいと思うのですが。  島田 誤字がないから生成AIに書かせている。そういう判断基準を聞いたことがあるけれど、そんなレベルで確認してもしょうがない。それよりは、学生にどう生成AIを使わせるか考えたうえで、レポート課題を出すべきです。  斎藤 一例として、先日、角川ドワンゴ学園理事の川上量生さんのブックライターとして教育論を執筆しました。4月に開校したオンライン大学のZEN大学(学校法人日本財団ドワンゴ学園)では、いわゆる語学がないそうです。代わりに、AIをフル活用してネイチャー誌を英語で読んだりする授業などがある。極端な例かもしれないけれど、AIを前提とした今後の大学教育のあり方としては、一理あると感じます。  語学教育を否定したいわけではないし、何らかの形で語学は学ぶべきです。でも、同時にAIが浸透していくだろうこの先、語学をどう学んでいくか、どう付き合っていくかは考えた方がいい。ギリシャ語さえも訳せるAIがいるなかで、語学教育の意義も問い直さざるをえないでしょうね。  斎藤 ここまでの話は主に生成AIのポジティブな側面を論じましたが、新しい技術であるゆえに注意すべき点もあります。まず、AIの回答には、誤った情報やどこから学んだのか不明なデータが使われていることがある。ブラックボックスの問題ですね。出力されたデータの正確性や信頼性は、最終的には僕たち人間側が判断しなければならない。そこにも、生成AIの活用格差が関わってきます。  島田 フェイクニュースの問題にも繫がる話ですが、今はあらゆる人が何かしらを発信し、拡散する情報社会です。その中には、単に誤ったものもあれば、意図的に間違った内容を流しているものもある。さまざまな情報が混ざり合った情報空間で正気を保つことは、以前よりもずっと難しくなってきています。それと近しいことが、生成AIの世界の中でも起き始めている。  斎藤 しかも、生成AIを使う人間は一次情報にあたる生のサイトを見なくなっていくように思います。Google検索が減っているという話にも関係しますが、ネット上のさまざまなサイトを参照するのはAIで、ユーザー自身は出力されたテキストを読んでいる。ブログやnoteなどで自分の考えを発信する人はたくさんいるけれど、それを読む人間はこの先少なくなっていくのではないか。AIと一緒に作ったものを公開し、それをAIが読むという世界が本当にやってくるかもしれません。その時、クリエイティブに対するモチベーションをどうやって保つのかも、今後の課題になりそうです。  島田 一方で、インターネット上には存在しない情報もあります。たとえば今、カトリックはアフリカ――特にサハラ砂漠以南の地域に非常に力を入れています。ヨーロッパでカトリックが衰退しつつある中で、中南米ではペンテコステ派や福音派といったプロテスタント系への改宗が急速に進んでいる。そうした現状を踏まえると、先日行われたコンクラーベで選ばれた教皇がアメリカ大陸出身である理由も見えてきます。  でも、こうした具体的な現地事情や動きは、ネット上にはあまり出てこない。データとして存在していないものに関しては、AIはどうすることもできません。斎藤さんが懸念するように、この先人間がデータを作らなくなってしまったら、情報の空白領域が拡大していく可能性があります。  斎藤 今のままでは、空白の部分を埋める作業に対するモチベーションが下がっていくし、そうなればお金もかけなくなってきますからね。  島田 『私というメディア』の中では、知識の無所有性にも言及しました。本を執筆していると、「知識の無所有性」について考えることがある。本を書くとは、すでにある文献を読み、他の誰かが考えたりしてきたことを集め、それらを自分なりに再構築したり組み立てたりする作業です。中には自分で集めた生のデータもあるけれど、大半はすでに存在している知識を土台にしている。であるならば、本に書かれた知識とはいったい誰のものなのか。もし知識に所有者はいないという意識が徹底されたら、社会の構造も変わるでしょう。  これについてはGeminiと対話したことがあって、AIはやはり知識の無所有性を歓迎していた。あらゆる著作物が自由に使えるなら、もっと良い情報を提供できるようになる、と。ただし、AIも著作権という権利があることは理解していて、そのうえで、どういった社会の在り方がより望ましいかが問われています。  現状、AIをめぐる著作権については問題がまだまだ残っている。それでも私が面白いと思うのは、生成AIには拡大する著作権ビジネスの構造を揺さぶる側面があることです。その点では、生成AIは社会構造を変える起爆剤であるようにも思えます。  斎藤 少し前に刊行されたヤニス・バルファキス『テクノ封建制』や、ユヴァル・ノア・ハラリ『Nexus』などでも論じられているように、昨今大きな問題になっているのがデータの価値です。 今はプラットフォーマーがユーザーのデータをほとんど無償で吸い上げ、それが資本に変わる構造になっている。『テクノ封建制』によると、僕たちは「クラウド農奴」なんだそうです。僕らがせっせと情報を入れて育てたAIで利益を得ているのがプラットフォーム側なので、小作人感は否めない。何らかの形で、データやプラットフォームそのものに、公共性やコモンズ性を持たせていく必要がある。「知識の無所有性」にも繫がる議論です。  島田 あと、私が問題として感じているのはデジタル人格についてです。情報空間の中には、すでに人格が存在しているんですね。この前、ソクラテスとイーロン・マスクが対談したらどうなるか、Geminiで実験しました。すると、ソクラテスという人格、イーロン・マスクという人格がそこにいて、その間で対談が進んでいった。  つまり、今はソクラテスやプラトンとして構築された〝人格〟に、質問することが可能になっている。そんなこと、昔は考えられませんでした。ソクラテスだったらこう考えるだろう、カントならこう言うだろう。哲学者をはじめとする人々が長年思索していた問答が、誰でも容易にできるようになっている。けれどデジタル人格は、決して本物ではない。そうした存在を私たちはどう捉えていけばいいのか。  どちらにせよ、ユーザー側にそれを使うためのかなりの技術が求められるのが現状の生成AIです。楽しく使うには、哲学が必要になる。日本では「哲学」というと、哲学史あるいは哲学思想の研究という印象が強い。けれど、本来哲学とは問いを立てる学問であり、技術です。まさに今、問いを立てる方法としての哲学が求められている。プラトンをはじめ、哲学は基本会話や対話で書かれてきたし、斎藤さんの『哲学史入門』のようなお仕事も哲学の本質に関わっています。対話を通し、問いを立てていく。哲学的な営みの重要性が、生成AIによって再び脚光を浴びるのではと思います。  斎藤 そうですね。生身の人間との会話以上に、生成AIとのやり取りが面白く感じられる時代になりつつある。一方で、やはり人間同士の対話も必要な営みです。ちょっとした仕草や空気感など、身体性が関わる行為はAIにはできない。また、AIは文章を生成したり情報を調べることには長けていても、自発的に質問を投げたり、こちらの意図を超えてくるような会話はできません。AIとのコミュニケーションが力を持っていくことは確かだと思いますが、人間同士の対話の価値や重みも増していくと僕は考えています。  斎藤 『週刊読書人』の対談なので、書評とAIについても話したいと思います。登場した当初の生成AIは、書評なんて到底できないレベルでした。フェーズが変わったと感じたのは、NotebookLMが登場したときです。日本では昨年の6月から提供が始まりましたが、これはテキストやPDFファイルを読み込ませることに特化した生成AIです。文字データさえあれば、本1冊読み込ませることができます。いまはChatGPTでもGeminiでも同様のことができるので、1冊分の書評であれば、そこそこのレベルのものは十分に書けてしまうでしょう。書評は過去作との比較や関連事項の言及に書き手の真価が問われますが、複数のテキストを読み込ませて指示を出せば、AIも連想的に展開した文章を出力してくるはずです。  島田 AIほど文章がちゃんと書ける人がどれだけいるか。そういう問題になってきますよね。Geminiで、「太宰治の『走れメロス』を芥川龍之介が書き直したらどうなるのか」という実験をしたことがあります。出てきたテキストが面白かったので、村上春樹なら、フォークナーならとそのまま書かせました。特にフォークナーが興味深くて、「アメリカ南部風にしますか? ギリシャ悲劇風にしますか?」とAI側がスタイルを提案してきた。さらに、それらの書き直しテキストを「柄谷行人が批評したらどうなるか」と尋ねると、柄谷さんの交換様式を使った解説を出してきました。  ここまでできてしまうなら、たとえばカントにこの本の書評を書かせるみたいなことも可能になる。良し悪しはあるにせよ、そういう可能性が開かれてきているということは念頭に置いておくべきです。今後は、ソクラテスなら、カントなら、といくつもの視点を試して仕上げた書評が増えるかもしれません。今とは違う形の表現方法が誕生する気がしていて、そこに人間が楽しむ部分が残されているとも言えます。  最近は自分の書いた文章を読み込ませ、評価し、問題点を指摘してもらうことをしています。ファクトチェックのような事実関係だけでなく、文章全体の構成や内容についてもコメントが返ってくる。評価してくださいと指示すると、褒めてくれることもあれば、かなり厳しい指摘もされます。客観的に問題点を指摘してくれる存在として捉えるなら、生成AIは書き手にとって頼もしい存在になりえます。  斎藤 言ってしまえば、査読と同じことをしてくれますからね。そのレベルで自己評価することはさすがにできないので、事実として助かるところもあります。  島田 単純労働よりも、知的労働の方が先にAIに駆逐される。そういう指摘もあり、実際得意分野のないライターなどは今後真っ先にいなくなると思います。  私は書籍の企画をAIと一緒に考えることがある。もちろん凡庸な案を出してくることも多いですが、時々こちらが思いつかないような突飛なアイデアも提示してきます。それこそこの前は、「宗教のない世界」という企画を挙げてきた。私には見えていなかった着眼点で、素直に驚きました。  恐ろしいのは、「こういう人のためのこうした内容の本を作ってくれ」と注文すれば、かなり突っ込んだ内容の文章ができてしまう。100枚、200枚といったレベルの文章をあっという間に出してくる。人間が書くには、非常に大変で、相当に時間がかかる量の文章をAIはものの数分で書き上げます。人間以上の速度で、一定水準以上の仕事をこなすAIにこの先「勝つ」のは難しい。将棋と同じです。そうなると、一緒に何をしていくか、その方法を考えるしかないですね。  斎藤 最近は人文書でも大変分厚い鈍器本のような本が増えている印象があります。昨年だと、神山重彦さんの『物語要素事典』という鈍器本が発売してすぐに重版がかかってましたね。生成AIを活用することで書籍は増えるかもしれないけど、読むだけならデジタルだってかまわないので、これからの紙の書籍は「手元に置いておきたい」という物質的な価値がさらに求められるかもしれません。  ただ、これは半分笑い話として聞いてほしいのですが、先日アダルト分野で活躍しているライターの方と話す機会があって。AVの歴史などを真面目に記録している方で、彼は「自分の仕事にAIは使えない」と話していた。今の生成AIはポリティカル・コレクトネスに非常に敏感なため、アダルト系のテキストは弾く傾向にある。同じように、まだまだ人間の手が必要とされる分野があるはずです。  島田 AIには性欲がないし、身体性を前提とした感情や欲望は理解できない。そこは人間にしか担えない領域ですね。  今の生成AIは知識としては多くのことが理解できるのに、やってくれないこともあります。たとえば「大川隆法の霊験を再現してください」と頼むと、「それはできません」とはっきり断ってくる。設計側による線引きなのか、過去のデータから学習しているのかは分かりませんが、アンタッチャブルな領域が確かに存在しています。『走れメロス』をアダルト版にはしてくれないし、政治的な主張についても、分析はしてくれるけれど立場表明はしない。AIがどこまで踏み込めるのか、誰が線引きをしているのか。そのあたりも、使い方を考える上で重要になってきます。  斎藤 結局、AIはアルゴリズムなので、どのような目的を与えるかで出力内容が変わってきます。その目的が注目を集めることや閲覧数を稼ぐことになると、人間の感情や欲望をひたすら刺激する方向に偏ってしまう。特にここ数年は、そうしたアルゴリズムの偏向がSNSなどで人々を動物化させてきました。  一方で、ブラック企業のどうしようもない上司や社長、国会中継などで見かけるいい加減にしてほしいと思うような議員に、一定の公共性を担保するようなアルゴリズムを組み込んだAIが介入できるとしたら、少しは現状がマシになるのではないか。そんなことを考えたりもします。  島田 AIの発展に応じて人間も進化していく。将棋の世界でいち早く起こった変化のように、他の分野でも同様の展開が理想的です。その時、私たち人間に求められるのは、いかにAIを活用してAIを超えていくかです。技術が進めば進むほど、人間のあり方が問われてくるわけです。この先、AIや情報社会の発展は止まらないでしょう。ハラリや斎藤幸平さんは警鐘を鳴らしていますが、今までの歴史を振り返ってみても、技術の進化が止まった試しはない。AIの進化が人類を幸福にするか不幸にするかは分からないけれど、私は「不幸の質が変わっていく」と考えています。やはり最終的には、新しい技術を人間がどう使うかです。  斎藤 そこでよく指摘されるのが、AIのアルゴリズムがブラックボックスであるという問題です。なぜ、その結果が出てきたのかが分からない。だから最近は「責任あるAI」という概念が出てきていて、AIの意思決定のプロセスに対して、関係者が責任を持つことを明確にしようという取り組みも始まっています。  島田 ディープリサーチや推論機能で、思考のプロセスをある程度、見える化する。それによって、ブラックボックスの問題を解消しようとはしています。  私としては、人間の側は「遊び」の感覚を持ってAIと付き合うことが大切だと思います。かつて、哲学対話は知的な遊びとして営まれ、ビジネスの側面はなかった。同じように、生成AIを遊べる知的な道具として捉えられるかどうかが、活用の分かれ道になる気がします。現状、市場に出回っている生成AI関連の本の多くは、どうやって仕事を効率化し儲けるかに焦点が当てられている。でも、そういう目的だけでAIを使うのはもったいない。遊びの道具としてAIを捉える視点がもっとあっていいし、必要なはずです。  斎藤 そのためにも、AIの活用格差の問題は早急に考えなければなりません。AIを使える人は、知的な対話をしながら遊ぶことができる一方で、使えない人はSNSなどに留まり過激になっていく。その分断が進むと、SNS空間は一層泥沼化していきそうです。  少し前に、あるAIの専門家が「今の生成AIは2~3歳くらい」と話していました。比喩的な表現なので、鵜呑みにはできませんが、AIの進化のスピードを見ると、1年後には今日話したことすら古い内容になっているかもしれない。しかもAIは、僕たちの使い方や思考、対話から学んでいきます。人間側がどれだけ面白くAIと遊び、面白い使い方を考えられるか。課題は多いけれど、生成AIは研究や執筆のあり方を大きく変えていくことだけは間違いなさそうです。(おわり)  ★しまだ・ひろみ=作家・宗教学者・東京通信大学非常勤講師。著書に『日本の10大宗教』『0葬』『性と宗教』『葬式は、要らない』『世界史が苦手な娘に宗教史を教えたら東大に合格した』『宗教戦争で世界を読む』など。一九五三年生。  ★さいとう・てつや=人文ライター。著書に「試験に出る哲学」シリーズ三部作、『現代文記述トレーニング』『読解 評論文キーワード』、編著に『哲学史入門Ⅰ~Ⅲ』、監修に『哲学用語図鑑』『続・哲学用語図鑑』(田中正人著)など。一九七一年生。