2025/10/17号 5面

降りる人

降りる人 木野 寿彦著 九螺 ささら  大学生時代、通学中の電車で、窓の向こうに見た光景がある。それは、ある、外の作業場だったのだが、作業着の四、五人の男たちが、地面に倒れた同じ作業着の一人の男性を蹴り続けているというもので、当時の私は『蟹工船』を想起し、狭い一か所での集団労働というのは、非人間的ゆえストレスを溜め込み、その捌け口として強者が弱者をイジメるのだと、労働と労働現場を恐れた。しかし本作の主人公である三十歳の宮田は、そういう質のイジメや暴力があり、社員が期間工を下に見る、単純労働ゆえ人間性を搾取される労働現場で、唯一の友である浜野との絆を深めてゆく。前職を辞めた宮田は、浜野に、人と接することが少なく「人間だとは思われない」仕事だと紹介され、同じ工場で期間工として働くことになった。作業内容は、エレメントにリングをはめてベルトを作るというものなのだが、社員ではない宮田は、それがどういうものの一部になるのか全体像は把握していない。殺伐とした労働の日々だが、それゆえ、独自の感性を持った浜野が宮田の心の拠り所、オアシスとなってゆく。  夏風邪をこじらせて欠勤した浜野の家に宮田が行き、「とにかくゆっくり休んで」と言うと、「俺が死んで誰か困るか? 少なくとも俺は困らん」。ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』の最初について、「あそこはいいな。安心する」「神が死んでも世界は終わらない」。浜野はニーチェを読む一方、仕事でミスをするとアダルトビデオのDVDを買っては見て自慰をし、救われている。「いいか宮田、アダルトビデオは無からひょっこり生まれるものじゃない。俳優が演技をして、スタッフがそれを撮影して編集して作られるものだ。そこには明確に労働が発生している。労働には対価を支払わないと世の中の仕組みがほつれる。ネット上に転がっているアダルトビデオを無料で楽しむのは、道端に落ちているものを拾って自分の物にするような行為だと俺は思う」。宮田と浜野は、共に恋愛経験がゼロに等しい。ゆえに生身の女性を前にすると、まるで中学生のように変になってしまう。宮田は、同じ工場で働く期間工の女性朝日さんに好意を抱く。しかしその後、彼女の意外な素顔が分かり、宮田は彼女にアプローチするが、宮田と朝日さんの心はすれ違う。浜野は、映画を語る場で出会った女性とデートの約束が成立したと思い込み、ワークマンで服を新調して出かけるが、女性は来ない。浜野は、ファンであるAV女優に手紙を出し、その返事が来ると感動するが、生身の彼女に会える場に行くことには気持ちが盛り上がらない。  浜野は、宮田が一人で抱えていたある秘密を知り、その危険をシェアしようとして失敗し、結果、共犯関係となった二人の絆は強まる。しかしそのことでクビになる二人。宮田は、たった一人の友人浜野との別れを察するが、しかし浜野からもらったある物により間接的に危機を回避、恩人である浜野に自らアプローチして、二人の縁を再確認する。タイトルの「降りる人」とは、浜野が、ニーチェの超人に対して作った言葉「降人」のことなのだが、降りるとは勝負の場からの退場ではなく、集団での相対評価を降り、自分なりの人生という絶対評価にシフトしていくことを意味するのではと解釈した。「大事なのは、選択するってことだ。強いられたり仕方なくやるんじゃなくて、自ら選ぶんだ」と言った浜野は、次も職は工場での期間工なのかもしれないが、その心の持ちようは、今後も自ら選び続けるのだろう。(くら・ささら=歌人・絵本文作家)  ★きの・としひこ=九州大学文学部卒業後、工場勤務や事務職を経験。本作「降りる人」で第一六回小説野性時代新人賞を受賞しデビュー。一九八三年生。

書籍

書籍名 降りる人
ISBN13 9784041166048
ISBN10 4041166047