- ジャンル:特集
- 評者: ファブリス・アラーニョ
ファブリス・アラーニョ インタビュー(聞き手=久保宏樹)
<ゴダールの〈編集台〉へと旅する>
《感情、表徴、情念 ゴダールの『イメージの本』について》(*東京・新宿歌舞伎町)展開催を機に
二〇二二年に亡くなった映画監督、ジャン=リュック・ゴダールの世界を体験する展覧会《感情、表徴、情念 ゴダールの『イメージの本』について》が、七月四日より、東京・新宿歌舞伎町の「王城ビル」(新宿区歌舞伎町1-13-2)で開催されている(八月三一日まで)。本展覧会キュレーターであり、晩年のゴダールの右腕であった、スイスの映画作家ファブリス・アラーニョ氏にお話をうかがった。新宿におけるインスタレーションの設営から、新作『湖』(二〇二五年ロカルノ映画祭のコンペ選出)の関係者上映のためにパリへ直行してきたファブリス・アラーニョに付き従い、インタビューする機会を得たものである。この対話は、パリでの上映後ローザンヌへと向かう帰路の最中に自然と始まり、大部分はリヨン駅のレストラン「ル・トラン・ブルー」で繰り広げられた。(翻訳・インタビュー構成=久保宏樹)(編集部)
HK〔久保〕 映画の〝展示〟を行うというのは、ゴダールではなく、アラーニョさんのアイデアだったのでしょうか?
FA〔アラーニョ〕 現在の展示は私の考えです。しかし……物事は、少しずつ出来事が積み重なる中で生み出されていきます。ことの発端となったのは、二〇一五年の試みです。『さらば、愛の言葉よ』の後に、冗談半分で「3Dの後は、3Eだ」〔Écran=スクリーン〕と言って、三つのスクリーンで実験したことがあったのです。奥に一つスクリーンがあって、左右に二つのスクリーンを並べ、三連祭壇画のようにしました。ジャン=リュックの家でケーブルを整え、『さらば、愛の言葉よ』を上映してみたのです。三つのスクリーン上に、僅かばかりの偶然性を伴いながらも似たような映像を、漠然と、それぞれの映像が独立しながらも予測不可能となる状態で上映してみました。DVDを用いて行いました。それ故、真に必要な技術を用いて行われたわけではありませんが、DVDでもそれぞれのシークエンスを上映することはできます。異なる映像をそれぞれ見せることができるということです。結果として、偶然性に支配されることになる。各スクリーンに出力されるのは、同じDVDの映像ではありません。ある瞬間には、異なる映像同士が、偶然同じ場で上映されることになります。私たちは、そうした映像を、ジャン=リュックへインタビューをするために訪れていたジャーナリストに見せました。二〇一五年の三月のことです。「So Film」という――サッカーマガジンの「So Foot」に似た名前の――批評誌を創刊した男でした〔映画批評家ティエリー・ルナス〕。その男は日曜日の夜に家に来たのですが、ジャン=リュックは、心臓の問題を起こして、そのまま……。
HK その一件に関しては、ミトラ・ファラハニの映画『See You Friday, Robinson』にも出てきます。
FA その一件です。ジャン=リュックが心臓の問題を起こして、病院へと運ばれたのは紛れもない現実でした。作品の中で見せられているのは、現実ではなく、映画内の〝現実〟ですが、二〇一五年に起きた出来事です。三つのスクリーンを用いてスクリーンを複数化する試みは、心臓発作の年であるその時点で止まってしまいました。
その後二〇一九年に、パリ郊外のナンテールのアマンディエ劇場での展示がありました。展示のために、映像を上映するための技術的方法を見つけなければいけませんでした。DVDで映像を上映することは避けたかったのです。DVDプレイヤーは技術的な面においては、あまり信用できるものではない。さらに、私たちは、可能な限り高画質の映像を流したいと考えていたと思います。それに対して、ある時ジャン=リュックが発見をしたのです。アイデアの大元は、ジャン=リュックの着想に基づくものです。ジャン=リュックは、小型コンピューター「ラズベリー パイ」に関する広告記事を、私が買ってきた新聞の中に見つけた。記事によると、この機器は映像を上映することができる。「これで3Dの上映ができるだろう。3Dで上演するのも悪くないはずだ」と言ってきました。私は了承しました。そして一つ、二つとラズベリーを注文したのです。機械を手に入れるのには、少し骨が折れました。それでも何とか手を尽くして、手に入れました。三〇ユーロほどの実に小さいものでしたが、コンピューターのマザーボードを備えていました。HDMIケーブルを繫いで、Linuxのプログラムを通じて、映像を高画質で流すことができるものでした。
そんな経緯を経て、ラズベリーは私の机の上にずっと置いてありました。二〇一九年の段階において、ラズベリーをメディアプレイヤーの代わりに用いて、アマンディエ劇場のインスタレーション上映に使用する考えが、私たちの中にはあったのです。インスタレーションのためには、結構な数の機械が必要でした。おそらく二〇、三〇のラズベリーを用いたはずです。規模としてはとても大きな展示で、後に続くインスタレーションの最初期のものでもあります。しかし実は、もっと以前にも遡ることができます。「Isadora」〔デジタル映像のリアルタイム操作ソフト〕を用いて展示をしたことがあったのです。最初の試みは、パリのグラン・パレで行われた「ピカソ・マニア」という展覧会のための企画でした。様々なメディアで取り上げられたピカソの作品を元にしたものでした。ジャン=リュックは、『勝手にしやがれ』の中でピカソの絵画をいくつか引用していたので、企画者から依頼があったのです。その企画のために「Isadora」を用いる機会がありました。
それから、二〇一九年のアマンディエの企画の前にも、二〇一八年の終わりには、最初の一歩となる別の企画がありました。ローザンヌのヴィディ劇場において『イメージの本』のインスタレーション上映を行ったのです。既に特定の空間における上映環境で演出を行うものでした。劇場の内部には観覧席がありました。私たちは、家具の上にテレビのモニターを設置し、絨毯を敷き、映像から離れたところにスピーカーを配置しました。しかし、空間内のスクリーンの数は一つでした。
HK その上映企画については覚えています。当時、『イメージの本』はフランスでは上映されることがなかった。配給会社も決まっておらず、上映の機会もなかったので、スイスまで観に行く必要がありました。
FA ジャン=リュックは、『イメージの本』がフランスにおいて、映画館で上映されることや、相応しくない形で公開されることに反対していたのです。そんな経緯もあって、二〇一八年の「劇場=スクリーン」が、最初の第一歩でした。それより以前のちょっとした小噺があります。カンヌに向けて、『イメージの本』の映像の色調を調整しいていた時の話です。ジャン=リュックは、テレビモニターで映像を修正したり、動きを考えたりしていました。元のファイル自体には、その動きは含まれていませんでした。その映像効果を生み出していたのは、テレビのモニターだったのです。作品のプリントを作るためには、彼がモニターを通じて見たままのものを、映像として加工していかなければならなかった。私は二つの映像を、同時に流して見比べる必要がありました。一方には、ジャン=リュックのスクリーン上の映像があり、他方には私のモニター上の未加工状態の映像がありました。最終的に、私の手元のファイルをジャン=リュックのものと似たようなものにするために、色調を調整していかなければなりませんでした。二つの映像を同期させるための満足いく方法は考えつきませんでした。そのため、一方の映像を停止しては、もう一つの映像を再生するといった方法で行っていったのです。そうすると、二つの映画が目の前にあり、二つの瞬間を同時に見ることになります。とりわけ三部における列車の映像などが、顕著たる例です。そこには、ジャック・ターナー『ベルリン特急』の長いトラベリングの映像等が含まれている。そうした映像を二つのスクリーンを通じて上映しようとすると、少しのズレが生み出されます。効果は、とても面白いものでした。二つの映像が同時に上映されること自体、面白い試みになるのではないかと感じられた。その体験が頭の片隅にずっと残っていたのです。
それからヴィディ劇場の上映空間を演出する企画があり、つづいてアマンディエ劇場の企画がありました。アマンディエでは、小さな機械を用いて再生映像のプログラムをするなど、本当に細かなことまで行い、映像を順路に配置することにしました。
FA 二〇一九年末から二〇二〇年にかけてはニヨンの「ヴィジョン・ド・レール」〔ニヨン国際ドキュメンタリー映画祭〕における企画がありました。映画祭は、ニヨン城〔歴史博物館〕を会場の一部としており、城の一階部分を自由に使うことができました。映画祭の総合監督からジャン=リュックに、この空間で何かすることはできないかと依頼があったのです。ジャン=リュックは断りました。映画祭が依頼したのは、彼の描いた絵の展示とか、その種のことだったと思います。ジャン=リュックは拒否した。しかし私は何かをしてみたかった。『イメージの本』を単に二つのスクリーンで上映するのではなく、空間の中で解体し、第一部、第二部、第三部、第四部、第五部、そして「アラビア」のように分解して、多くのスクリーンを通じて上映する。それによって訪れた人が映画の中に入り込み、散策できるようにしたかったのです。映画を分解し再構築する。そのために、再びラズベリーを買い、プログラムを行いました。アマンディエの劇場の同じ映像を繰り返すだけのものとは異なります。ニヨンの展示のために私が新しくプログラムしたのは、より複雑なものです。たとえば一つのファイルに十篇の映像の断片を挿れたとすれば、その映像がランダムに選ばれ上映される。全ての映像の上映が終わった後は最初に戻り、別の順序で再びランダムに上映される。その順序での上映が終わったら、また新しく別の順序での上映が始まる。毎回の上映の順序を、全く新しいものにしたのです。そうしたプログラムの方法は、インターネット上にあった情報を寄せ集めて、試行錯誤を繰り返しながら作り上げて行きました。
映像のモニターを地面に置くよりも、舞台装置の一部のようにしたらいいのではないかとも考えました。IKEAの棚を用いて、空間を再構築できるだろうと考えたのです。その棚は、まさしくジャン=リュックが使っているものと同じものに他なりません。棚の様子は、「偉大な黒板」(Le grand tableau Noir=アラーニョが出版したゴダールのノートブックの一つ)で確認することができます。ノートの冒頭、ジャン=リュックは「演出を統括するシナリオ」という言葉を使っています。そして、モンタージュの棚を見ることができる。IKEAの「Ivar」という棚で、彼が昔から使い続けているものです。『JLG/JLG』においても、テーブルランプの近くの本棚が出てきますが、それはIKEAの棚です。『パッション』においても、ハンナ・シグラとイザベル・ユペールと一緒になってIKEAの棚が登場します。そんなふうにして、IKEAの棚は、必要に応じて、色々と調整することができるのです。それ故、IKEAの棚を舞台装置のひとつとして使おうと考えた。
ジャン=リュックの思考の奥底、彼が仕事をする私的な空間を表現するために、テーブルランプも使うことにしました。その光の下においては、くつろいだ感じがし、温かみが感じられます。ジャン=リュックの考えの、その繭が持つ、ちょっとした温かみを感じることができるのです。そんな考えを通して、ニヨンの展示は構成されました。ジャン=リュックは、展示の様子を気にしていました。一般公開される三日前、私は彼を迎えに行き、展示会場を案内しました。
FA 彼は、自身の作品が空間の中で分解されるのを本当に喜んでいました。舞台装置が、映画の内容そのものと自然に一致するような働きが至る所に見られたからです。たとえば「中央地帯」は、実際に展示空間の中央に位置していました。もし「中央地帯」を見ているのであれば、その周りにあるすべての映像の音を聴くことになります。作品の上映時間の真ん中辺りが、空間の中央にも重なっています。
その展示空間の中央にいた際、記憶に焼きついたことがあります。目の前から列車の音が聞こえ、背後からは「リメイク」や「法の精神」の章の音が聞こえ、さらには、けたたましい「アラビア」の音やアヌアル・ブラヒムの曲、アフリカやアラビアの音楽が聞こえてくる。この中央においては、一組のカップルの姿を見ることになります。男女は時間が過ぎるのを待ちながら、抱きしめ合っている。男女が待っているのは、時間であり、死であり、そうした種類のことです。これがニヨンの展示でした。
その後、ベネチアの展示がありました。ジャン=リュックは関係していませんが、私は、二〇二一年の建築ビエンナーレのスイス館の共同キュレーターを務めることになったのです。スイス館から、ビデオインスタレーションの依頼を受けました。当時、インターネットで検索をしていたら、あの小型コンピューターのラズベリーをハッキングすることができるとわかりました。結果ハッキングによって、再生や停止などの操作を遠隔で行うことが可能になりました。ハッキングのためには、二〇一五年のグラン・パレの展示のために使った「Isadora」というソフトが必要でした。グラン・パレの「ピカソ・マニア」のためには、先ほど言ったように、三つのプロジェクターを用いて、三連祭壇画のようなことを行っています。ピカソの作品、メディアに表象されたピカソの作品、ジャン=リュックの映画に引用されたピカソの作品を、ランダムに旅できるようにようにプログラムしました。三連画の形式を用いてです。「Isadora」の可能性を探求してみたかったのですが、どのようにしたら二〇枚のスクリーン上の映像を管理できるのかは理解できていませんでした。二〇もの映像を、同時に出力できるコンピューターは存在していなかったからです。そんな経緯もあり、ラズベリーをIsadoraでハッキングできると知った時には、試してみたくなりました。そして、ベネチアの建築ビエンナーレのスイス館のためにプログラムをしてみたのです。
HK そこで用いられた映像は、ゴダールの映像とは関係なかったのでしょうか?
FA ジャン=リュックの映像ではありません。私が国境沿いで撮影してきた映像です。スイス館の企画は、スイス国境に関するものだったからです。テーマとなったのは「国境の厚さ」に関してです。展示は模型によって成り立っていました。小型トラックに乗って、スイスの国境をひと回りしたのです。国境のそばに住む人々たちの姿を模型にして展示しました。彼らがいかにして国境を体現しているかを、模型を通じて伝えたかったのです。私は、そうした人々の姿を撮影しました。二〇二一年の企画です。
FA 二〇二一年の終わりには、ベルリンで展示する提案を受けました。ニヨンの展示を再利用しました。しかしベルリンの展示会場はニヨンとは違い、窓も古い壁もない、真っ白な壁に囲まれた美術館のような空間でした。ニヨン城の空間は素晴らしかった。古い壁があって、歴史を感じさせる寄せ木張りの床などで造られている。外へと開かれた窓もありました。窓は、外の風景を映像の中に取り込むことを可能にしました。窓から見える風景が、まるで映像の一部のようになった。ニヨンにおいては、私は椅子をいくつか部屋の角に配置しました。人が座る場所を、文字通り角に置いたのです。とてもいいアイデアでした。まるでカメラを移動させるかのようにして、好きな位置に椅子を持っていくことができた。カメラを動かすのではなくて――カメラというインターフェースなしに――見る人を動かすことができたのです。それによって面白い現象が起こり得ます。ある瞬間には、映像を取り去って、窓の前に見る人を配置するだけで十分になる。芸術とは束の間のことに過ぎません。感情があり、それを伝える。何かを見た時、誰かと一緒に何かを体験した時に、感情が昂ります。その感情を他の人に伝えるために、絵画や音楽などの表現を用いる。人々は、作品を見たり感情を受け取ったりするために、その場を訪れることになります。もし仮に、そうした伝達を直接的にできるのであれば、それ以上にいいことはない。映像を取り去り、直接伝えればいいからです。絵画、演劇、文学、詩などのあらゆる芸術表現を取り去り、直接伝達すればいい。ニヨンの展示は、ある瞬間には、ほとんどそのようなものになっていました。『イメージの本』を解体していく。ある瞬間には『イメージの本』のイメージは必要なくなる。そこに残るのは椅子と窓だけです。極論を言うと、そのようなものです。
HK 本質だけが残るわけですね。
FA ええ。物事の本質に行き着くのです。それは作家自身の居る場所にさえ辿り着いています。物事を見るのが観客自身になるので、観客は作家になるのです。作家は、世界を見るために作品を必要としません。作家は、世界を見るという行為を実践しつづけているのです。自分の見たものを伝えるために、作品を作らなければいけません。もし仮に、それを伝えるために作品を作らなくてもいいとしたら、本当に素晴らしいことです。
HK それは、ある意味で、インスタレーションを通じて、ゴダールの編集台に戻るということになるのではないでしょうか?
FA はい。編集台に留まり続けるということになります。編集台である場所に居つづける。先ほど話したIKEAの棚も編集台の一つです。インスタレーションは、その編集台を巨大に破裂させたようなものです。私たちはその中を歩き回ることになる。私の短編映画『ロール ワークショップ 旅』も同じ考えに基づいています。森のように木々が生い茂る編集台の世界の中を、ネズミの如く彷徨っていく。
FA ベルリンの企画においても、同様の考えを持っていました。私はできる限りのことを行いました。ベルリンは、ドイツ人の如く、キッチリとした場所です。私は、展示空間の中のあらゆるものが整列されないように、精一杯手を尽くしました。結果、展示の全体が木製の棚でできた森のようになりました。
ベルリンの次には、パリのメナジェリー・ド・ヴェールの展示がありました。この企画では、遠隔でファイルを操作するためのハッキング技術を再び用いて、インスタレーションをするのが良いと考えました。その技術を、ジャン=リュックの映像のために使ってみたかったのです。展示のために、五台のコンピューターを使用しました。五台のコンピューターが同時に仕事をすることになった。チュール〔レース地の生地の一種〕も使うことにしました。どんな効果を生み出すかとても気になっていました。その薄い布は、出現と消失を可能にする手段でした。布をスクリーンと見立てて、正面からプロジェクターの光を当てると、普通のスクリーンのように光を通しません。反対に、後ろから光を当てると饒舌になります。面白い効果を生み出してくれるのです。
HK チュールに関しては、よく覚えています。マックス・オフュリュスの『快楽』のダンスシーンが、部屋中に張り巡らされたチュールのスクリーンの上に映し出され、死のイメージと反響しあっていました。
FA パリの展示では、その種の連関を絶えず起こすことに成功しました。また閲覧順路の始まりを小さな扉にしました。スイス館の展示において学んだことです。展示の準備を始めた時、スイス館を設計した建築家の考えていたことについて思うことがあったのです。その建築家はジャコメッティの弟です〔ブルーノ・ジャコメッティ〕。彼は、スイス館の正面の大きな扉から人々が入ることを考えていた。しかし一緒に作業していた彫刻家と私は、順路を逆にして、裏口にあたる小さな扉から入場し、正面の巨大な扉から退場する方が面白いことに気づいたのです。大きな扉を通じて見終わった観客を外に出すのは、見事なアイデアでした。「ほら見てごらん。君たちが見なければいけないのは、この世界だよ」と語りかけるようなものです。真に見るべきは、私たちが展示で見せたものではない。それは単なる道筋に過ぎません。本当に美しいのはこの世界です。作品を見ることではありません。
HK そうした考えは、ゴダールの死後に生まれ出たものなのでしょうか?
FA 裏口から入って正面口から出るというアイデアは、彼の生前からあったものです。ジャン=リュックも納得していました。考えが生まれたのは、二〇二一年のことです。「イメージの讃歌」となるアイデアは、二〇二一年の段階でジャン=リュックと一緒に……。言うなれば考え自体は、私たちの中にあったのです。しかし、ジャン=リュックは去ってしまいました。私たちは、それでも展示を行うべきかどうか、判断を迫られることになります。ジャン=リュックの死を利用するような気がしてならなかったのです。しかし最終的には、私たち自身で、私たちが行なってきたことを生きながらえさせなければいけないと考えました。たとえいなくなったとしても、こんな風にしてジャン=リュックは生きつづける。だから展示を行うことにしたのです。要するに、アイデア自体は以前から存在していたものです。ベネチアの技術を用いて、さらには裏口から入って正面口から出る。そんなアイデアに基づいて、メナジェリー・ド・ヴェールの順路は構成されました。楽屋口から劇場に入場して、一般入口から退場する。私の考えでは、芸術家や作家とはそのようなものだったのです。作家、芸術家とは、受け止める人なのです。
HK 今言われたことは、とても詩的に聞こえます。その内容を次のように言い換えることもできます。〝全ては観客の中で起きる〟。芸術の世界を通過することで、現実の世界を真に見ることができるようになる。
FA あらゆることは自分の中で起きる。芸術家は、自らすべき仕事をなしている。各々が自分にしかできないことを行う。しかし……もし観客となる人が、その表現を感じることをできないのであれば、表現されたものを自分の中で作り変えることができないのであれば……。芸術は、見る人の中で、自分なりに再び作り替えられる。なぜなら、自分の中に欠けているものがあるからです。自ら不可視のものがある……。自身の好奇心が、自ら与えるものによって育まれることを欲しているのです。しかし、それは自分自身の問題であり、芸術家の問題ではありません。芸術家は、自分なりの方法でそうしたことを示しています。しかし、それを簡単にこなしているわけでは……。
HK アラーニョさんが現在行っていることは、とても素晴らしいことです。今日世間に溢れているゴダール神話を解体する行いに他ならないからです。
FA 神話と共に生きることはできません……。
インスタレーションに話を戻すと、今まで話をしたように、少しずつ発展していったということです。メナジェリー・ド・ヴェールでは、『イメージの本』を駆け足気味に編集しなければいけませんでした。展示会場の設営上の制限もあったからです。ネット回線の問題など、多くの問題に対処しなければいけませんでした。
ある時には、「何の作業をしているのか」と自問してしまいました。チュールのスクリーンを設置して、プロジェクターを設置するなどの作業を、同時にこなさなければいけなかった。ベルリンで行った棚の展示のために、第一章「リメイク」の全ての映像を集めたファイルがありました。三台のラズベリーには、「リメイク」の全ての映像のファイルが入っていた。第二章「サン・ペテルスブルグの夜話」の全ての映像が入ったラズベリーが四、五台ありました。メナジェリー・ド・ヴェールの展示の際に考えたのは、全てのラズベリーに『イメージの本』全ての章の映像が入ったファイルを入れるということでした。そしてシステムに上映を命じることにしたのです。「今から「リメイク」に関する映像を、自らのデータソースに基づいて、好きな順序で一斉に上映せよ」。そのような指示を、プログラムのコードにして書いていきました。「リメイク」の上映を、それぞれのコンピョーターが一斉に行う。花の讃歌、列車などについて、各コンピューターが独立しながらも一斉に上映を行う。様々な映像が混じり合うことになりますから、非常に興味深いものになります。
さらに私は考えを発展させました。全体の映像を、ダンスにまつわるものを流すように指示したり、「法の精神」の章に関わるものにするように命じたり、それらを混ぜ合わせるように指示をしました。つまり、映画の全容は決して見えないようにしたのです。
上映環境が劇場だったので、座席を並べて、映画館のように上映することもできました。座席から距離のあるスクリーンに上映することも可能です。また映画上映に関して演出することもできた。空間の奥行きを利用したものであったとしても、映像と音によって成り立つ映画を、そのまま見せることもできました。しかしながら映画とは、スクリーン上に映された無味乾燥としたものだけに留まるものではありません。作品自体を演出することも可能なのです。単にスクリーン上に上映しただけでは、『イメージの本』を見ることはできません。章ごとに分かれていないからです。自分自身が「中央」の章に位置し、その周りを他の章が囲んでいる。自らの身体を移動させることで、初めまたは終わりに向かっていくことができる。そうしたことは、自らの目の前に作品がないと体験できません。
FA パリの企画の後には、リスボンの展示がありました。ここでは、それぞれの展示空間が章を提示するようにしました。会場は五つの部屋によって構成された、床が軋む古い木製の邸宅でした。五つの部屋は連なっており、それぞれの部屋には扉が二つありました。全体を一つの順路と見立てることが可能だったのです。建物の中央には、階段が備え付けられていました。私は「リメイク」の上映を、その階段で行うことにしました。階段を登った先の床には幾つものテレビモニターを配置し、「サン・ペテルスブルグの夜話」を流しました。上映場所からは、反対側に「リメイク」を見ることができる。反対側から「リメイク」の章に戻ることになるのです。ここでは、展示スペースに入ってくる人々の姿も見ることができました。観客にとっては、自分自身のリメイクを見ることにも繫がります。順路を進んでいくと、列車の展示があります。そこには肘掛け椅子のような座席を配置しました。座席に腰掛け、反対側にいる人々を見ることができます。次の部屋には「中央地帯」があり、さらに「法の精神」です。全体を見渡すと、一章、二章、三章、四章、五章という流れにおおよそ沿っていましたが、実際には少し違います。二章、一章、三章、五章、四章という流れになっていた。順路を反対から辿って、四章、五章、三章、一章、二章という見方をすることもできた。「アラビア」に関する展示は、建物の外で行いました。中庭に見事な木があったので、その木に果物や花の如くモニターをぶら下げて、「アラビア」の映像を流したのです。
リスボンにおける展示は妙案でした。映画というものがそのまま表現されていたからです。章から章へと移動しながら作品全体を見ること、または遡ることができた。それを行っていたのは展示空間自体だった。これがリスボンの企画でした。
HK それとは別に、ポルトにおける企画もありました。
FA その企画は、ポルトの「オリヴェイラの家」〔映画博物館〕で行われたものです。リスボンの企画とは全く別物です。ニコル〔・ブルネーズ〕は、パリの展示を見ていましたが、ベルリン、ニヨン、リスボンの展示は見ていませんでした。それでも彼女は、メナジュリー・ド・ヴェールにおける展示をとても気に入ってました。そんなこともあって、パリで行ったことを、会場の一部で再現できないかと頼まれたのです。彼女は、ジャン=リュックの描いた絵の原画やシナリオの原本の展示を行いました。私は、パリのメナジュリー・ド・ヴェールの『イメージの本』のインスタレーションを、規模を縮小しながら展示することになりました。ポルトの企画自体は、どちらかというと資料などを見せるという考えに基づいていました。多くの資料と共に、映画のフォルム、イメージの探索、色彩、音などに関するビデオ映像の展示もありました。
HK ポンピドゥセンター〔パリの現代美術館〕の展示のようになっていたのですか?
FA それとは異なります。言うなれば、大学教授の行うような展示になっていました。
HK 概要を紹介するようなものになっていたということですか。
FA 内容を説明するものです。ガラスの中に作品を展示して見せる。そうした展示方法は、私は好きではありません。
HK ポルトの展示は、ニコル・ブルネーズの企画だったのですか。
FA そうです。カタログのようにして展示する企画でした。彼女は研究者です。原画なり原本なり、オリジナルのものを展示したがる。私は、オリジナルの展示は――ノートブックであっても――反対です。実際に、そうしたものを人々の手に委ねると、破られたり悲劇的なことが起こり得るので、実物を見せることはしたくない。しかし複製を作ることはできます。私たちは、実際にノートブックの複製を作りました。複製を展示することで、人々に見せることはできるのです。ノートブックを実際に手にすることによって、ノートブック本来の機能に関わる「めくる」という行為を通じて、内容に近づくことが可能となる。逆にノートブックをショーケースの中に入れて展示するのは、酷いことです。ガラスの箱の中では、死んだようなものになってしまう。棺桶に入れられてしまったのと同じことです。ノートブック自体と本来的に持つべき関わりを、私たちは持つことができなくなってしまうのです。
HK そうやって考えていくと、映画というものは元々、現在アラーニョさんが行っているようにして上映することが許されていたのかもしれません。映画は本来的に、オリジナル〔オリジナルネガやマスターポジ〕を見せるものではなく、コピー〔上映用に複製されたフィルム〕を見せるものだからです。新宿の展覧会も、そうした考えに基づいているはずです。
FA はい。新宿の企画は、パリのインスタレーションを、ビルの四階分のフロアに応用したものです。まずは、ジャン=リュックが「人間の真の条件とは、手で考えることである」と語っている場所があります。その同じ空間の延長に「リメイク」がある。展示のために、建物の五フロア、あるいは贅沢に六フロア分を使うことはできませんでした。実際に使えたのは、合計で四フロアです。そのため最初の階段を、導入部として利用しています。導入部の次には、「リメイク」と「サン・ペテルスブルグの夜話」の展示室があります。主にテレビモニターとプロジェクターを通して上映される映像で構成されています。ここでは二つの章が混じり合う興味深い状況が生まれています。映像が絶えず上映され、反響し合い、争いのようになっている。階段を昇り上の階に行くと、「線路の間の花々は旅の迷い風に揺れて」、「法の精神」、そして少しだけ「中央地帯」を扱う空間があります。展示全体の真ん中にあたるので、「中央地帯」を配置しました。さらに上の階に行くと、「幸福のアラビア」と再び僅かながらの「中央地帯」を扱う展示室がある。その後は、結論部を見るために階段を降りることになります。結論部によってインスタレーションの順路は終わります。しかし、展示全体を完全に納得できるものにするだけの十分な時間はありませんでした。ですから、まだ仕事を続けなければいけません。
HK そうした作業は、日本の会場にいなくても可能なのですか?
FA はい。ウェブカメラを用いて会場の様子を確認したり、その種のことを通して行います。想像によって補完していくのです。 (おわり)
★ファブリス・アラーニョ=映画作家・プロデューサー。撮影監督としてゴダール作品に参加。
★くぼ・ひろき=映画史研究家。パリ在住。
〔本特集の完全判(「ゴダールが亡くなる直前の日々」など)は記事左下QRコードから〕
書籍
書籍名 | イメージの本 |