天野惠子氏インタビュー
第59回吉川英治文化賞受賞を記念して
循環器内科医の天野惠子氏が、本邦における性差医学・医療の第一人者として吉川英治文化賞を受賞した。受賞を機に、天野氏にお話を伺った。
性差医学・医療とは、男女における症候の差異に目を向けた医学研究・医療実践のことである。例えば、心筋梗塞の初発平均年齢は、男性が65歳に対し、女性は75歳である。従来の医学は、女性ホルモンによる体質の変動がない男性をモデルとして発展してきたため、女性特有の症状への注意が不十分であった。そのため、天野氏は性差医療の最初の実践の場として、女性外来を開設することを選んだ。
「女性外来というのは、総合診療としての性差医学・医療の実践の場です。患者さんの多くは精神心理の問題を抱えており、器質的な問題も多岐にわたります。ベストなのは、一つの病院で多くの診療科を備えつつ、患者さんの生活背景への的確な洞察と医学的に正しい知識をもって診察に当たることです。しかし、そこまで要求するのは難しい。大事なことは、性差を理解して、女性において何が問題なのかを突き詰めていくこと。これだけは絶対にやらなくてはいけません」。
「今の女性外来で一番多いのは、自身の専門に関わる分野についてはその性差に精通していて、それ以外にプラスアルファで治療法やネットワークを広げている、という先生ですね。私は正直、現況の「専門医」という先生は医師全体の2割程度でいいと思っています。むしろ、患者さんをよく見て、よく話を聞いて、どうすれば治してあげることができるか、総合的に考える総合診療医の先生が少ないことの方が問題ですね」。
天野氏は医療実践に漢方を用いることが多い。漢方は、患者の精神心理や複雑な器質の問題にも効き目を示すので、総合診療に向いているからである。加えて、東洋医学の中では特に体系的に学ぶことができ、女性外来の「成功体験」を積むのにうってつけであったことによる。
「各地の女性外来立ち上げの際には、全国津々浦々、漢方の専門家である木下優子・田代眞一両先生とともに漢方のセミナーを開いて回りました。人から「天野先生がなぜ漢方を?」って聞かれることもありましたけれど、私はどんなことでも、まず否定から入ることはしません。とにかく自分でやってみて、納得すればそれを認めて、治療にも取り入れていきます。今は漢方も西洋医学に基づいた科学としてのエビデンスが確立しつつありますし、漢方医の見立ての凄さも目の前で見てきました。それに漢方は、個々の薬が生まれた歴史が面白く、またわかりやすいんです」。
天野氏が性差医療に関心を持つようになったきっかけは、40代の頃、現在では「微小血管狭心症」として知られている胸痛に出会ったことだ。これは更年期前後の女性に、狭心症と全く同じ胸痛症状を呈する病だが、致死性ではなく、検査をしても狭心症を示す所見を摑まえることが困難である。しかも、当時は「心臓神経症」と呼ばれ、心疾患にすら数えられていなかった。
「ですがある時、高校時代からよく知っている女性が私のもとを訪れて、胸痛を訴えたのです。一度は仕事をセーブしてもらって症状が治まりましたが、十年ほど後また来院しました。彼女が噓をつくわけはないし、絶対これは何かあると思ったのです」。
「産業医が彼女に狭心症の特効薬であるニトログリセリンを処方していたんですが、頭痛がするだけでちっとも胸痛には効かない。私は26歳の時に数年間渡米した経験があって実感していたんですが、日本の循環器医学はものすごく遅れていましたね。だからいつも英語文献を渉猟していました。それで、彼女が来院した時に腰を据えて調べてみました」。
「すると、アメリカ国立衛生研究所のR・O・キャノン先生が、見事に微小血管由来の狭心症があることを証明していたことを知りました。彼は心筋内の細い血管を潤した血液が最後に流れ込んでくる、冠状静脈洞というところの乳酸値を調べたのです。そして、心拍数の上昇・胸痛の発生とともに、その値が上昇することを突き止めた。乳酸というのは筋肉が虚血になると生じる物質だから、これは確かに狭心症が起こっていると」。
それから天野氏は、ニトログリセリンは300マイクロメートルより細い血管をかえって収縮させてしまうという、東北大学医学部の金塚完医師が報告したイヌの実験を参考にしながら、臨床研究に取り掛かった。しかし、他の医師たちの視線は冷たかったという。
「同僚の先生に協力をお願いしたんですが、「(その患者は)死なないんだろう? 先生診てたら?」でお終いだったのです。なぜかといえば、そのころ私はまだ駆け出しでしたし、彼らはもう、死にそうな患者の狭窄を広げることに喜びを感じていた時期でしたから。死なない患者なんてほっとけって感じですね。だからひたすらずっと自分で診ていました。アメリカの論文を頼りに様々な薬の投与を試してみて、それで今の私があるんです」。
第二の契機は、天野氏自身の更年期障害だった。
「私は50歳の時に子宮筋腫の手術をしたのですが、産婦人科の先生が、あなた3人も子どもがいて、これから赤ちゃん生むわけでもなし、卵巣も取っとくよって言って、私も「あ、そうですか」くらいの気持ちで摘出しました。そこから私の更年期障害が始まりました」。
「最初に現れたのが皮膚症状。足の裏がゾウの皮膚みたいに固くなって、頬の皮膚もハリがなくなって。驚いて産婦人科に行ったらプレマリンというエストロゲン剤をくれて、それを飲んだらスッと皮膚は良くなりました。これで子宮がないから子宮がんにならない、卵巣がないから卵巣がんにならない、プレマリンを飲んでるから更年期障害にもならない、働く女性としてはラッキーだ、くらいに思ったのです。でもそうはいかなかったのね」。
それから2年ほど経過して、様々な症状が現れるようになった。
「まず現れたのは、のぼせ、火照り、不眠といった症状でした。でもこれで死ぬわけではないしなどと思っていたのですが、今度は温泉で足の裏を軽石でこすったら、びりびりびりーって全身にしびれが走ったのです。整形外科の先生たちに見てもらったところ、三者三様言うことが違うので、そういう時は何も信じないのが一番。しびれの次はものすごい冷えです。特にお腹から下が冷えていて、お風呂に入ってもへそより下が冷たい。それから物忘れが激しくなりました。約束を同時刻に三つも入れてみたり、一年先の予定を今日だと思い込んだり。そして極めつけに、ドーンと歩けないぐらいのしんどさが来ました」。
全ての症状が終わったのは59歳の秋だった。
「ある日突然スーッと抜けるようにしんどさがなくなって、青空がバーッと広がった。更年期には終わりがあるんだって身に染みて体験しました。その間当然、産婦人科の先生たちにも聞きに行きました。みんな、男性。更年期を全然経験したことがない。ただ理屈だけ。全く役に立たなかったですね。これはダメだ、私が立ち上がらなかったら女性は救われないと思って、性差医学・医療をとにかく進めようと考えたのです」。
最後に、性差医学・医療の今後の課題を天野氏に尋ねた。
「現在の性差医学・医療は、臨床治療サービスと研究に関してはもう成り立っていると思います。これからの課題は、専門教育にこれを組み込むこと。性差医学・医療はまだ文科省の必須教育科目になっていませんし、医師の国家試験にも出てこないので、ここに入れられるかどうかです。指導者の育成もこれと繫がっています。その次に考えなければならないのが、地域啓蒙・患者教育です。これが今の医療に一番欠けています。適切な時に適切な診療科にかかる。それでも良くならないときに、「性差を考慮した女性総合診療実践の場」としての女性外来に行く。こうした順番を皆さんが理解するようになると良いですね」。