2025/10/17号 5面

「映画は作者の考えを乗り越える」(ジャン・ドゥーシェ氏に聞く)410(聞き手=久保宏樹)

ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 410 映画は作者の考えを乗り越える  JD エリック・ロメールは、映画作りにおいて、あらかじめ決定すべきことは決定しつつも、撮影において自発的に発生してくるものを映画の中に取り込む余地を残していました。「作家」としてなすべきことと、「映画監督」としてなすべきことを、非常にうまく調和させていた。それは「映画作家」として見習うべき姿です。  HK 現在のハリウッド映画は、ストーリーボードに基づいた作りになっています。  JD そうであるからこそ近年のハリウッド映画は、本当に退屈なものになりつつあります。映画というよりも、アニメーションのようになってしまっているからです。  HK フランスでは、ストーリーボードは直接的に使いませんが、脚本がその代わりを果たしています。根本には、CNCやARTEの助成金制度の問題があります。  JD はい。それは一種のストーリーボードのようなものです。今日の脚本は、本当に細かいことまで指示している。脚本の余白がなくなっているのです。映画は、その余白なしにしては成り立ちません。というよりも、余白があるからこそ、映画が芸術の世界において革新的だったのです。つまり、映画は世界を科学的に記録する芸術であり、そこで撮影されたものは、撮影したものを乗り越えてしまうのです。当然ながら、撮影する人の被写体の選択や技術的な問題なども入り込んできます。しかし一度撮影されるや否や、映画は撮影した人を超越してしまう。  例えばリュミエール兄弟の映画があります。リヨンの工場の出口、南仏のシオタ駅に記者が到着する様子、あるいはベネチアのゴンドラの上から撮った映像など、世界中の風景を撮影したものがあります。今日考えてみると、それらの映像は、非常に初歩的な演出がなされている寸劇や、簡素に当時の風景を撮影したものに過ぎません。しかしながら、紛れもなく当時のありのままの生を記録している。一二〇年前のベネチアの風景を私たちは目にすることができる。そしてリュミエール兄弟の工場出口における本当に初歩的な演出は、映画というものの起源に関わる映像として、今日まで語り継がれています。彼らが考えていたような、単なる見せ物には終わらなかった。リュミエール兄弟が述べていた「将来のない芸術」ではなかったのです。要するに、映画は作者の考えを乗り越えてしまったということです。  一方で、今日の映画を見ていると、映画作家が全てをコントロールしようとする傾向が強まっています。それは映画というものに対する裏切りです。映画は――すでに述べたように――現実の生を相手にする芸術です。そして、集団的な試みでもあります。それらを、あらかじめコントロールすることはできないのです。もしかすると、コントロールしようとしているのは、映画作家ではなくて、その背景にいるプロデューサーやCNC〔国立映画センター〕といった機関なのかもしれません。または、彼らの言い分では、最終的に映画を見ることになる〈観客〉たちが望んでいるからである。いずれにせよ、徐々に映画の世界が不自由なものになっています。そうやってコントロールしようとする態度は、映画を締め付けるだけです。根本からして、映画の起源であり本質である〈生〉に反するものなのです。  HK デプレシャンの最近の映画を見ていても、以前のものと比べて広がりがなくなり、単純な作りになっている印象を受けます。九〇年代終わりから二〇〇〇年代にかけて、彼の映画は、非常に面白い作りをしていました。常に家族や友人の問題があり、彼らの間で和解や決別があり、多くの出来事が入り混じっていました。それに加えて、手紙などの小道具を効果的に使い、時間的な隔たりも表現されていました。手紙を読み上げる形で、ベルイマンの映画のようなバストショットの長い独白が入ったりする、強く印象に残るシーンもありました。しかし、彼の近年の映画は、物語の膨らみも以前ほどなく、他の映画と大差ないありふれたものになってしまっています。想像に過ぎませんが、彼の映画も、現在の映画作りのあり方の変化の煽りを受けたのだと思います。  JD それは、単にデプレシャンが最近の数本で失敗をしただけです。     〈次号へつづく〉 (聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)