2025/11/21号 5面

百日と無限の夜

百日と無限の夜 谷崎 由依著 泉谷 瞬  語り手は、切迫早産によって約三ヵ月=百日の入院をすることになった「わたし」。病院での生活をめぐる強烈な経験に幾度も襲われるなかで突如、「――来るがいい」と、女の声を聴く。能の「隅田川」と「班女」を彷彿とさせる物狂いの女が「わたし」を中世の風景へ誘い、以後は病院の暮らしと地続きに二つの世界が語られていく。現実と幻想の不可思議な接続に翻弄される「わたし」の感覚と体験、記憶と思索の渦に、読者はあっという間に巻き込まれることとなるだろう。  だが本作を紹介するにあたって、たとえば「女性の妊娠・出産・育児をあますところなく捉えた物語」――といった書き方は一旦やめておこう。その理由として、このような一文が何らかの誤解を招くおそれがあるからだ。確かにあらすじをたどる限り、こうした説明も決して間違いとは言えない。けれども「女性の」という修飾が付いた途端に、それは「産む女性の」という意味へ簡単に横滑りしてしまう。最終的には、生物学的な本質主義と母性神話を心地良く結びつけるような役割を果たしかねない。誰にとって心地良いか――もちろん読者にとって、である。本作がそうした危険性を了解した上で、すべての女性という普遍的な主語を慎重に回避しているにもかかわらず、読者の側が取り違えてしまうことには注意しておきたい(ただしこれは本作に対して、女性ジェンダーが抱える困難と切断するような読解を推奨するものではない。作中で語られる、ままならない身体のありように共感を覚える読者は多いだろうし、その文脈はむしろ積極的に参照されるべきである)。  物語の中身に戻ろう。第一幕で堅実な物語の枠組みが設定されたかと思いきや、第二幕ではそれが早々に揺らぎ、小説の形式に対する固定観念が次々と崩されていく。「わたし」の語り口は自由自在に変転し、ついには「この連載」というメタフィクショナルな言及もあっけなくおこなわれる。出産後、子供が「赤ん坊」でなくなった時期から、「妊娠と出産をテーマとする文章」が書けなくなってしまったと正直に吐露する「わたし」は、幻想の平行世界の描写についても「周回遅れ」ではないかと自問自答を始めてしまう。  しかしこうした状況に陥っても、小説の語りはなお時間と空間をめまぐるしく組み替えながら、さらにその語りも重層的となる形で続いていく。深刻な場面と並列して抱腹絶倒のユーモアも織り交ぜられ、ここから第三幕、終幕までの展開はもはや予想がまったくつかない。まるで小説を書き、生み出すことが、子供を産む行為と密かに重なり合っているかのようだ。  そうすると、この物語は「わたし」という女性の妊娠・出産・育児の詳細を描きながらも、やはりその一連の行為には留まらない、この世に存在するあらゆる生産の瞬間に触れようと試みているのではないか。それは、人間社会における特定の活動だけを「生産性」の有無で測ろうとする立場への抗いともなるだろう。すべての女性という普遍的な主語ではなく、普遍的な主題と「わたし」は向き合おうとしている(この解釈の傍証として一点述べておくと、作品の後半で「が」と「は」の使い分けという話題が登場する。日本語教育の基礎にして難問でもあるこれらの言葉は、一般的に「が」が主語を強調し、「は」が主題を強調するものと区別される。そして本作では「が」で表現されるはずの文章が、ある人物によってことごとく「は」に置き直されていくのだ)。  生殖能力を核とした身体的特徴による性別の割り当て――非常に持って回った言い方になるが、しかし私たちが生まれ落ちる社会は、そうした「性」の制度にともかく重点を置いている。割り当てられた「性」へどのように応答するかは人に拠るとしても、それと無縁でいることは難しい。それでも、この「性」の制度に縛られつつ、どこかで個別の身体にのみ訪れる出来事をすくい取る作業が、文学には可能である。  このことを踏まえるならば、『百日と無限の夜』とは見事なタイトルと言うしかない。一切を包含した無限の夜のなかに、「わたし」の百日は存在する。無限の夜には誰か別の「わたし」の百日もあるだろうし、時にその両者は時空を超えて混ざり合っていく。混ざり合った後に離れた「わたし」は、もう以前のままではなく、新たに生まれた「わたし」に他ならない。本作に書き込まれているのは、こうした産む/生まれることの原理だ。(いずたに・しゅん=近畿大学准教授・日本近現代文学)  ★たにざき・ゆい=作家・翻訳家。著書に『鏡のなかのアジア』(芸術選奨文部科学大臣新人賞)『囚われの島』『藁の王』『遠の眠りの』など。一九七八年生。

書籍

書籍名 百日と無限の夜
ISBN13 9784087700107
ISBN10 4087700100