2025/04/04号 5面

文芸・4月

文芸〈4月〉 山田 昭子  昨年十一月十六日、「#道長と同じ月を見上げよう」という平塚市博物館の呼び掛けがX上に浮上した。その時放送中だったNHKの大河ドラマ「光る君へ」に登場する藤原道長の「この世をば 我が世とぞ思ふ望月の 欠けたることも 無しと思へば」が詠まれた当時とほぼ同じ状態の満月が見られると話題になったのだ。なんともロマンあふれる企画である。しかし興をそぐようではあるが、当然我々が見たのは道長と「同じ月」ではない。そればかりか、同時刻に空を見上げている隣人同士でさえ、「同じ月」を見ているという確証はないのだ。それは月だけに限らない。脳科学におけるクオリアの問題のように、果たして我々が目にしているこの世界は本当に〈同じもの〉で、それは〈本物〉でありうるのだろうか。  筒井康隆「偽眼」(『文學界』)は、そんな問いを想起させる。目に異常を感じた龍彦は眼科に行くが、医師の宣告通りやがて視力を失ってしまう。夢に出てきた狐のお告げ通りに白目を剝くよう努力すると眼球がひっくり返って暗くなり、もう一度試みると視界が元通りになった。だが、龍彦は自分の目玉は明らかに本物ではない、もしこれが偽物の目であれば、見えている世界も偽物の現実ではないのかという疑念にとらわれる。家族や恋人に尋ねても芳しい答えが得られず逡巡した龍彦は、最終的に「ここにいるしかあるまい」と世界を受け入れる決意をする。その決断は、我々が信じるべき「本物」はどこにあり、それを決めるのは誰かという根本的な問いを読者に投げかける。情報過多の現代社会では他人に物事の真贋をゆだねることほど愚かなことはない。だが同時に自身が選び取ったものこそがすべての人にとっての「本物」というわけではないという本質をも描く巧みな掌編だ。  自分と他者の世界がぶつかり合う時、多くの人は戸惑いを覚え、時に反発する。小山内恵美子「人心地」(『すばる』)に登場する中年女性、葉子は夫との離婚後、洋服の補正工房で針仕事に日々喜びを感じながら穏やかな生活を送っていた。ある日、姪の真由がしばらく家に置いて欲しいとやってくる。葉子は自由奔放な真由のふるまいに徐々に息苦しさを感じるようになり、別れた夫との五年半にわたる結婚生活と、変われなかった自分を思い出す。勝手に自室に入られることを警戒した葉子は、襖にスライドロックを設置し、しまいには南京錠へと付け替えるが、自身の世界を守るための強固な鍵は、同時に世界を閉ざすものとなる。真由がいなくなった部屋で南京錠を目にする葉子の姿には、閉ざした鍵を開けるのはほかならぬ自分自身なのだということへの気づきが芽生えつつあるといえるだろう。  母と娘のディスコミュニケーションが招く苦しみを描いたのは三国美千子「ズッキーニ病」(『新潮』)だ。「私」は母と幼少期からそりが合わず実家と疎遠になっていた。父が癌で他界する前から軽度認知症の傾向を見せていた母の元を久しぶりに尋ねた「私」は、母のズッキーニへの執着心を見て、「ズッキーニ病」になったみたいだと思う。枕を並べる娘の横で母は父の晩年の様子を話すが、そのどれもが実家を離れた「私」にとって知らないことばかりだった。母は、足の麻痺を抱えていた父が、鴨居に黄色い延長コードを引っかけ、自力で起き上がろうとしていたさまを懸命に再現して見せる。一般的に黄色は明るくポジティブなイメージでとらえられることが多い。だが、母のふるまいによって、黄色は父の孤独な闘病生活の色へと変わる。いつの間にか殖えていったという父が庭に植えたズッキーニは、黄色がかったものもあった。黄色く成長しすぎたズッキーニは過去の戻らない時間の象徴であろう。言葉にできない居心地の悪さ、母と向き合ってこなかったことへの呵責の念が色のイメージと重なって迫る秀逸な短編である。  見ている月が同じものであるとは限らずとも、他者と同じ月を見るという体験は互いの距離を縮め一体感を生む。同じように焚き火を通して姉と向き合っていくまでの物語を描いたのは片瀬チヲル「そこで火を焚く」(『群像』)だ。芽雨は黒づくめの風貌から「焚き火の魔女」と呼ばれている女性と出会い、彼女の「焚き火」に参加するようになる。魔女は幼少期の焚き火を思い出し、自分で熾す焚き火の魅力に目覚めたのだという。芽雨はSNS上の不適切な動画や画像を削除する仕事の契約社員で、職場でも家でもネットの世界から離れられない。美容師だった姉はSNSの誹謗中傷が原因で仕事を辞めてしまったが、スマホが手放せず散財を続けている。芽雨は先行きに不安を覚えながらも現在の生活に甘んじてしまい今後のことを姉に切り出すことができない。自分の「焚き火」を作ることに挑戦し、魔女や友人らを招いた芽雨は、あとからやってきた姉と二人きりで焚き火が燃え尽きるさまを見届ける。  現在、インターネット上では焚き火動画が人気を集めている。だが、芽雨と姉を物理的、心理的に向かい合わせるのは、「いま」「そこ」でたしかに燃えている焚き火だ。暗闇の中、姉の存在を感じ取る芽雨の意識は、姉との間に新たな火を育てようとする心のたかまりを予感させる。(やまだ・あきこ=専修大学非常勤講師・日本近現代文学)