不正義の克服
池本 幸生著
後藤 玲子
アマルティア・センが"The Idea of Justice" (2009)を公刊したとき、それをだれが翻訳することになるか、話題になったことがある。結局それが、池本氏の貴重な労作として(『正義のアイデア』(2014))世に出たとき、誰も驚かなかった。池本氏は、マーサ・ヌスバウムの『女性と人間開発』やセンの『不平等の再検討』の訳者として定評があったからである。とはいえ、あの大著を一人で訳し通すのは、人間業とは思えない。改めて心からの賞賛を贈りたい。
その池本氏が本書を執筆したと聞いて心が躍った。翻訳は長い時間を原著者と過ごすことになる。訳者ならではの発見や洞察もさることながら、不満や愚痴もたくさんあるはずだ。それらを伺い知る絶好のチャンスと期待して本書を手に取った。だが、その期待は、よい意味で外れた。本書は、解説書というより、池本氏自身の思索と体験の織り交ぜられたエセー(自己省察的な随想録)というに相応しい。「本音で読み解く」という副題が的を射ている。
とはいえ、本書にはセンの思想と学問のエッセンスと、それを組み込んでいまある経済学を拡張するためのヒントがいくつも含まれている。2つ紹介しよう。
第一に、本書の圧巻は、所得アプローチを退け、ケイパビリティ・アプローチを支持する点だろう。背後には著者自身の次のような貧困調査の体験がある。村人たちが「豆を混ぜたご飯」を炊いてくれたところ、現地の役人は「この村の人たちは貧しいので」と見下す態度をとった。不快に思った著者が、「豆ごはんはとても美味しい」と話しかけると、村人たちが「急に元気になっていろいろなことを話し始め」た(187)。「所得の調査は偏見を伴うので難しい」、対して、「ケイパビリティの調査はひとりひとりに寄り添う調査だ」と著者は結論付ける。
おそらく事の本質は次にあるのだろう。十分な量の米を食べているかが貧困の基準とされると、誰かを貧しいと分類し、人々を序列づけするまでの行程がほぼ一直線となる。すると、研究者の関心は、原因を回帰できそうな属性を突きとめることに絞られ、文化であれ、属性であれ、その原因とされた事柄を変えることが、貧困対策として推奨されかねない。
それに対して、ケイパビリティ・アプローチの要点は村人たちとの対話にある。貧しさは、政策的に対処すべき大事な側面ではあるものの、その人のすべてではない。きわめてあたりまえのことながら、まず、そこに人がいて、その人の喜びや苦悩がある。研究者はその傍らにそっと立ち、その人を守り抜く覚悟で調査をすべきだろう。著者がそうであったように。
第二に、著者は言う。「不正義を取り除こうとする動機は不正義を見て感じる強い怒りである」、それは「自分自身の利害とは関係がない」(16)、とはいえ。「その感情は慎重に精査されなければならない」(16)、「理性による精査を受けない感情に頼るのは危険である」(49)と。「推論」は、著者が正しく主張するように、センの『正義のアイデア』のキイワードである。センの近著『集団的選択と社会的厚生』(2017=2025)では、「公共的推論」の探究に社会的選択理論の未来が託された。
推論で求められる立証は、厳密な科学的実証とは異なる。著者はアリストテレスの言葉を引きながら、「みんなが納得できる答えを導くこと」の重要さを説く。著者はまた、だれもが考察し、原理を確認する、その個人的かつ集合的な実践をもって、女性の権利尊重の正しさを立証しようとしたメアリ・ウルストンクラフトの言葉を紹介している。
「情けは人のためならず」という諺がある。そのうち見返りがあるから、情けをかけよ、そう促すこの諺を著者は潔く退けつつ、こう言う。「人は不正義を見たとき、それが自分にとって何の見返りももたらさなくとも、あるいは、大きな犠牲を払うことになったとしても黙っていられないことがある」(191)と。その一方で、本書には途方に暮れたような言葉も散見される。「不正義に慣れてしまった社会では、不正義を見ても怒りを感じなくなっている…そのときどうすればいいのだろうか」など。おそらくこれは、読者がそれぞれ持ち帰るべき問いなのだろう。私自身は本書末尾の次の言葉を手がかりとして考え続けたい。
「苦しめられている人たちの窮状を知れば、それを取り除くために人々は行動する」。
私にはそう言い切る自信は到底ないものの、その人たちの窮状が少しでも伝わるよう、論理を組み立て、表現していることは確かだ。細かな論点は多々あるけれど、著者と同じ地平に立つことを、確認して結びに代えたい。(ごとう・れいこ=帝京大学経済学部教授・経済学)
★いけもと・ゆきお=東京大学名誉教授・経済学。編著書に『コーヒーで読み解く SDGs』『連帯経済とソーシャル・ビジネス』、訳書に『正義のアイデア』、共訳書に『不平等の再検討』『女性と人間開発』『ケイパビリティ・アプローチとは何か』など。一九五六年生。
書籍
書籍名 | 不正義の克服 |
ISBN13 | 9784750359229 |
ISBN10 | 475035922X |