ワイルドサイド漂流記
國友 公司著
武岡 暢
現代の日本列島に暮らす人びとにとって「ワイルドサイド」はどこにあるのだろうか。
本書は常識的な著者が「風変わり」な巷に寝泊まりした、その暮らしや訪問の体験記である。各章節の長さはまちまちだし、中身もエピソードの羅列が基本で、それらをまとめる構造やストーリーがとりたてて打ち出されるわけではない。とはいえ「まえがき」にある「突飛な変わった人」が軸にあるのだろう。著者がそれらの人びとに出会うのが歌舞伎町や西成やインドといった、いかにも「突飛な変わった人」がいそうな場所なのだから、その点も常識的で素直な本だとも言えるかもしれない。ワイルドサイドとは歌舞伎町、西成、インドだというわけだ。
評者はといえば、「突飛な変わった人」の相対性や文脈依存性を半ば条件反射で考えてしまう。この視点からは、本書で言う「突飛」さとはレトリック、あるいは演出であり、それらは(意図的なのかもしれないし無意識的なのかもしれないが)いずれにせよ著者の安定的な常識に基礎づけられて提示される突飛さと見られる。それは読み手の常識を共犯に引き入れながら、奇異、珍奇、新奇の感覚を醸成しようとする戦略であると、まずは読むことができようか。
「突飛な変わった人」にうろたえ、圧倒されることにおいてそうした著者の常識が機能しているあいだは安心して読んでいられる本書も、ひとたび対象社会や組織、人物への差別的とも言える口吻が顔を覗かせるやいなや、居心地の悪い思いをする読者もいるだろう。著者が勤務していた「ゲイ風俗店」のスタッフが多国籍で、観光ビザで来日した上で勤務していることについては「ほぼ確実に全員が不法就労だったはずだ。本当に酷い店だった。」(本書173頁)という評価だし、歌舞伎町の「ヤクザマンション」から引っ越した際に利用したのは「日本人のくせして名前が片仮名の」(本書200頁)不動産ブローカーだったという。くだけた娯楽読み物のなかの、前後の脈絡もはっきりしない一節であり、著者の意図するところは必ずしも明らかではないのだが、とはいえ娯楽であればなおさら引っかかってしまうという気もしないではない。たまたま手元にあった『アメリカ文学入門[新版]』(三修社、2023)では『アンクル・トムの小屋』について「善悪の区別が明確な通俗小説の形式をとりながら、奴隷制の罪深さを正面から告発することとなった」(同書33頁)と紹介しているが、それならば本書『ワイルドサイド漂流記』もまた、「善悪の区別が明確な」点においてまさに「通俗」書なのだ、と敷衍できよう。
この説明が『アンクル・トムの小屋』に適用されていることからも明らかなように、「通俗」的であるという評価それ自体に非難の意味合いはそれほど含まれていない。むしろ通俗的であっても社会的とか文学的とかの基準において意義あるものたりうるのだという、通俗の(見過ごされがちだが重要な)性能を示すものだ。問題は、通俗の使い道、使い方である。本書『ワイルドサイド漂流記』における通俗は、この観点からは、商品としての書籍を成立させるための方法であり、物を書くことが職業である、しかもその書いた物の売れ行きが生計を左右する、そういう物書きである著者のスタイルstyleであり、それに終始する。
繰り返すがそのこと自体は指弾されることでもない。「ワイルドサイド」は物珍しさにおいて消費される。しかし本書が不潔や汚穢とともにセクシュアリティ(とりわけゲイのそれ)をライトモチーフとしていることも、あまりに教科書的なオリエンタリズムではないかとの疑いが頭をよぎる。その意味で本書は本紙読者のような読書家向けの書籍としてはおすすめすることがいささかためらわれる、そういった種類の本なのではないかというのが評者の感想である。もっとも所収のエピソード一つ一つにはエピソードとしての生命があり、あく抜きをして可食部をうまく取り出すような健啖家の楽しみ方もあろう。同じ新宿であれば、例えば『新宿にせ医者繁盛記』の上野博正などは本書の様々なエピソードをどう見ただろうか。ともあれ、素材をどう面白がるかは、読者に残された自由である。(たけおか・とおる=立命館大学産業社会学部 准教授・都市社会学)
★くにとも・こうじ=ルポライター。著書に『ルポ西成』『ルポ路上生活』『ルポ歌舞伎町』など。一九九二年生。
書籍
書籍名 | ワイルドサイド漂流記 |
ISBN13 | 9784163919935 |
ISBN10 | 4163919937 |