荻生徂徠の世界
澤井 啓一著
藤井 嘉章
澤井啓一氏『荻生徂徠の世界』(ぺりかん社・二〇二五年)は、著者の半世紀に及ぶ徂徠研究の集成である。既発表論考を再編した本書には、原資料や近年の研究動向に関する新たな注が加えられている。旧稿との関係は「あとがき」に詳しい。
本書の特徴は「Ⅲ注釈」に表れている。自身の思想や方法論を抽象的に記した『弁名』や『学則』にではなく、ここでは徂徠による古典読解の現場に焦点が当てられる。しかし一般的に言って注釈は読みにくい。「全体」との繫がりが見えず、些末なことに拘泥しているように見えるからである。本書評では「Ⅲ注釈」第四章「『論語徴』という迷宮」、特に第一節「八佾篇『祭如在』章」の「祭如在。祭神如神在。」注釈に絞って紹介する。著者は当該箇所の記述を三段落に分割しているので、それに従って内容を構造化して示す。
【第一段落】(一四〇―一四四頁)
一、「古経」という語の考証が行われる。
〔一・一〕『蘐園十筆』で「古語」と表記されていた箇所が『論語徴』では「古経」となってる。
〔一・二〕徂徠の用例に「古経」がない。
〔一・三〕「古経」を『詩』『書』の逸文である可能性を検討する。
〔一・四〕徂徠の用例の中に「古礼経」があり、「古経」イコール「古礼経」説を検討する。
〔一・五〕『論語徴』の表記を門弟による校正段階における混乱である可能性を提示する。
以上の〔一・三〕~〔一・五〕の可能性はいずれも決定打に欠け、「古経」の内実は不明とされる。
【第二段落】(一四四―一四九頁)
二、先行する『論語』の先行注釈(程子・孔安国・范祖禹・伊藤仁斎)を取り上げて批判する。
〔二・一〕「祭如在。祭神如神在。」において、先行注釈の解釈である前文と後文で祭る対象が相違する(前文は「先祖」、後文は「外神」)という説を否定する。
〔二・二〕批判の根拠は「敬」と「孝」の序列に起因している。徂徠は「敬」を重視するが、先行注は「孝」を重視し、それゆえ「孝」に関わる先祖祭祀を卓立させていると考える。
〔二・三〕『蘐園十筆』にない范祖禹の記述を『論語徴』で導入した理由を述べる。徂徠が批判するのは、范祖禹が「敬」の対象である鬼神に対して、その有無を人間側の心の在り方(誠)に即して理解している点である。
〔二・四〕『論語徴』中の朱子学批判の文言である「宋儒之廃鬼神尚矣。」の「尚」字の意味を、『譯文筌蹄』を用いて「久しい」(現代語訳「宋代の儒者は伝統的に鬼神を排斥する」)とする。また『弁名』の記述でその解を傍証する。
〔二・五〕鬼の存在を否定した阮瞻に『論語徴』で言及していることの意義に言及する。
〔二・六〕伊藤仁斎批判は、仁斎が鬼神を重視しない立場であることに起因する。
〔二・七〕徂徠が鬼神を重視すべきとする根拠は『易』に基づいている。先行する『論語』解釈者は『易』を重視しないために、鬼神を軽視するようになったという。
【第三段落】(一四九―一五〇頁)
三、「天」と「鬼神」とを一つにして祀る儀礼の存在を主張する。
〔三・一〕『文献通考』「卷九十七・宗廟考七」に載る「天宝の詔」(唐)の中で、祖先祭祀に関する記述に「祭神如在」とのみあることから、祖先崇拝と神を祀ることを一体のものとしていたはずであるという主張を行う。
〔三・二〕『弁名』を引いて、先行注釈における祭祀は人間の「心」に関する事柄であるが、そもそも徂徠にとって「天」や「鬼」は人間の知ることのできない対象である。それゆえ聖人が「礼」を定めて、人々が「敬」に向かうように仕向けたことを述べる。
一読すると当該章の分析は、『論語徴』の記述に沿って、その意義や内実を並列していく形になっている。この形式は端的な「言いたいこと」を求める読者にとって、かなりつらい読書体験になるはずである。しかし、著者が『論語徴』自体の性格として捉えているのが、まさにこのような断片化した情報の集積なのである。孔子の思想が体系的に綴られているテクストとして『論語』を読むことを、『論語徴』は拒否する。それと軌を一にするように、著者の『論語徴』読解も、そこから徂徠の思想の全体像を抽出しようとすることに抗している。この全体化への抵抗は、第七章「太宰春台における古文辞学の逸脱と継承」において太宰春台を一般化への志向性を持つ人物とする位置づけと鮮やかな対照を示している(二七一頁など参照)。
しかし著者は単に『論語徴』の記述にまつわる些末な考証を断片化して並列することで事足れりとしているのではない。思想の全体像を抽象することに抗しながら、徂徠の思考の方法を取り出そうとしているように思える。それは本書第二章「〈方法〉としての古文辞学」に通底し、また本書全体の基調をなしている著者の研究姿勢であるということができる。(ふじい・よしあき=立教大学文学部助教・和漢比較文学)
★さわい・けいいち=恵泉女学園大学名誉教授・近世東アジア思想史。著書に『〈記号〉としての儒学』『山崎闇斎』『伊藤仁斎』など。
書籍
| 書籍名 | 荻生徂徠の世界 |
| ISBN13 | 9784831517043 |
| ISBN10 | 4831517046 |
