2025/10/31号 8面

百人一瞬 Crossover Moments In mylife 85・横尾忠則(小林康夫)

百人一瞬 小林康夫 第85回 横尾忠則(一九三六―    )  一度もお会いしたことはないのだが、去年から(ご覧の通り)本紙本面においては「隣人」である。しかも、わたしは一度は、横尾さんの展覧会に拙文を寄稿させていただいてもいる(横尾忠則現代美術館「開館記念展2」カタログ、二〇一三年)。だから、Xの「交差」までは行っていないが、Yの「分差」には届いていると、ここに呼び出してしまおう。  すると、カーヴする路の向こうからやって来る人影があって、それがなんと、(前にどこかで見たことがあるな!)ほとんどTの形をした十字架を抱えて、Sのように身体を曲げて、たったひとり、こちらへ、路面に白のペンキでSTOPと書かれたYの分岐点へ、歩いて来ようとしている……黒髭豊かな若きイエス・キリスト。  かつて一度だけエルサレムに滞在したとき、毎夜、人気の絶えた旧市街をあてどなく彷徨った。そうすると、どこかでかならず十字架を背負ったイエスが歩いたという「Via Dolorosa(苦しみの路)」と「交差」することになったことを思い出す。  いや、ここはエルサレムではなく、東京・京橋、南天子画廊、横尾さんの展覧会。六〇年代の作品も含めていくつもタブローが展示されているのだが、そのなかでも特大の「とりとめのない彷徨」の前にわたしは立ち尽くしているのだった。  横尾さんのY字路シリーズはもともと「暗夜光路」と題されているように、なによりも「夜」の光に浸されているのだが、この「苦しみのY字路」は、夜ではなく、青空と燃える夕焼けが焔のように渦巻き荒れ狂う世界。まだ「死」ではなく、STOP!「死」に向かって、ひとり十字架を背負って歩き続ける、激しい孤独の世界。   だが、それだけではない。画面の上部、電柱に取り付けられたパイプの上には、こちらに背を向けた男が二人。一人はまるで(違っているかもしれないが)小津安二郎を思わせる帽子を被った男で、その男の前にはどうやら映画撮影のキャメラが設置されているようである。  とすれば、ここは映画撮影の現場でもあるのか! 彼らは、燃え上がる世界の只中で、STOP! 生死「分差」のポイントに向かってただひとり歩き続ける「悲劇の主人公」のシネマを撮ろうと待ち構えているのか。  となると、さらにそのシネアストたちの後ろ姿までを、タブローというスクリーンを通して、いま、ここで見ているわたしがいることを感覚しないわけにはいかない。  かつてわたしはエルサレムの「Via Dolorosa」を「Vita Dolorosa(苦しみの生)」へと重ねて読もうとした(『存在のカタストロフィー』、未來社)。「Via(路)」はまた「Vita(生)」であった。そして、Yとは、そのVの尖端にIを付け加えたもの。横尾さんのY字路作品は、それを観る者の「I(私)」を密かにYのなかへ取り込んでしまうのかもしれない。  そう、ここにあるのは一枚の「鏡」。向こうから歩いてくる「私」がここでSTOP! 転回して、もうひとつの誰もいない路の奥へと消えていく……京橋の画廊で、横尾さんのタブローの前で、わたしもまた、一瞬、Vターンの尖端を突きつけられて、とりとめもない、しかし燃え上がる夢想へとおちていくのだった。    その後、わたしも観に行ったが、グッチ銀座ギャラリーでも横尾さんの展覧会「未完の自画像―私への旅」が開かれている。南天子画廊は十一月一日、グッチギャラリーは十一月九日までの開催。わたしが書いた横尾さんのY字路論は拙著『クリスチャンにささやく』(水声社)所収。(こばやし・やすお=哲学者・東京大学名誉教授・表象文化論)