日本語ラップ
中村 拓哉著
パンス
最近、「全日本フォーク・ジャンボリー」(1969~1971)の映像を見たのだが、観客である当時の若者たちの様子が気になった。70年代初頭までの日本のフォーク・ソングとは、西欧のムーブメントと同期しながら、日本でもスチューデント・パワーの象徴の一つとして成立していたわけだが、のんびりと地べたに座って手拍子を叩き、合唱する人々の様子は実にほのぼのとしたもので、政治闘争のようなイメージとはあまり折り合わない感じがするのが面白い。(より政治的にラディカルな集団が乱入することもあったというが)思わず「ぬるいのでは」と言いたくなってしまう。しかし、その見方もまたちょっと違うかもしれない。当時としてはこんなライブ・シーンも革命的だったのだ。と同時に、1960年代後半の学生運動における「連帯」という概念について考える。みんなが一緒に、壇上のミュージシャンが投げかけるメッセージを受け止め、そこで生じる祝祭的な感覚こそが共有されていたのだろう。
さて、時代はそこから数十年を経て、日本語ラップである。本書は2010年代に入って見られるようになった「日本語ラップ批評」の、一つの集大成だ。内容は大きく3部に分かれている。第1部で歴史・社会を追い、第2部は思想・哲学的、第3部は文芸・音楽評論的な側面からの分析となっているが、個人的な関心が高いのは第1部のテーマなので、そこに関して紹介していきたい。
読めば、日本語ラップが、バブル期以降の社会変化と真っ向から対峙してきた音楽ジャンルであるとわかる。「対峙」とはいえど、それが「権力への抵抗」といった一面的な解釈で捉え切れるものではなかったところに面白さがあり、その系譜が丁寧に分析されている。1990年代までの日本語ラップは、反抗的なアプローチを見せるにしろそれまでの左翼的な感覚とは距離があり、「新人類」以降のカルチャー感覚と、ストリートから出てきたヤンキー的感性が同居しながら独特の緊張感を持って進化してきた。その複雑さゆえに単線的な歴史を描きにくいのだが、そこを紐解いていくだけでなく、現代思想や日本の文芸批評にある文脈をふんだんに代入していくことで、よりスリリングな論考に仕上げている。
中でも「一人称」というキーワードは、新鮮な見通しを与えてくれる。ライムスターの宇多丸が提起したこの定義は、要はラップとは「俺は、こうだ」と言っている、ということである。そのために、連帯や共感を安易に求めることはなく、むしろ聴く者に「てめえはどうなんだ?」と問うている。この定義はさらに複雑で、例えば「他と違うかけがえのない私の個性」をアピールするならば、それはいわゆる「差異化ゲーム」としてわかりやすいが、日本語ラップにおいては「ヒップホップ」のルールやオーセンシティの中での「私」になるのだ。しかもそれは彼らが参照するブラック・ミュージックの「グルーヴ」を経て、単独でありながら共同体に開かれたものになる。単なる個人主義ではないのである。
日本語ラップに見られるこの絶妙な姿勢は、ゼロ年代以降にストリートから出てきたさまざまなラッパーによって、より積極的に実践された。中産階級的なものが次第に融解し、アンダークラス、移民などを含む人々の中で生まれていくそれら「一人称」の言葉たちは、期せずして「日本」そのものを問うような表現となり、それまで形式として存在していた「一人称」が「主体を発見していく」ことになったという。そして1980年代にひっそりと生まれたA-Musik「反日ラップ」という楽曲を経由しつつ、「1968年」的な問題に突っ込んでいく。ここには手拍子を叩いて連帯するような、微温的な反抗精神などはない。この系譜が日本語ラップの底流にあり、ポスト・フォーディズムの時代をバラバラに生きる私たちそれぞれが「どうなんだ?」と問われ続けているのだ。私自身も然りで、いかにも戦後日本的な「左右」の軸で文化を捉えてしまいがちだったが、そこに収まりきらない問題が、日本語ラップの中では持続していたことを痛感させられたのだった。(パンス=ライター・DJ・テキストユニットTVOD)
★なかむら・たくや=二〇一五年より、「韻踏み夫」名義で批評家/ライター活動を開始。本書よりペンネームを改名した。著書に『日本語ラップ名盤100』、論考に「六八年の持続としての批評──絓秀実『小説的強度』を読む」(赤井浩太・松田樹責任編集『批評の歩き方』)など。一九九四年生。
書籍
| 書籍名 | 日本語ラップ |
| ISBN13 | 9784863856844 |
| ISBN10 | 4863856849 |
