2025/10/10号 3面

論潮・10月(高木駿)

論潮 10月 高木駿  僕は、いわゆる「恋愛」において、よく「気が多い」とか、「だらしがない」とか、「思わせぶりだ」とか言われます。「ちゃんとした方がいいよ」などと咎められるとちょっと嫌だなと思うこともあります。自分では、人を好きになりやすい体質なのかなぐらいで理解していましたが、最近、友人とのやりとりや、「アロマンティック」、「アセクシャル」というセクシャリティ関連の著作を読む機会に恵まれ、その体質をセクシャリティとして見つめ直すことができました。  近年、「LGBTQ」という言葉が人口に膾炙したこともあり、セクシャルマイノリティを指す言葉(「ゲイ」、「レズビアン」、「バイセクシャル」、「トランスジェンダー」、「クィア」)も当事者以外が知る言葉になってきました。「アロマンティック」と「アセクシャル」も特定のセクシャルマイノリティを指す言葉です。近年では、一般書や漫画、ドラマでも取り上げられることがあり、知っている方もいるかもしれません。  セクシャリティを明確に定義するのは難しいですが、アロマンティックは「他人に恋愛感情を抱かないこと」、アセクシャルは「他人に性愛感情を抱かないこと」と説明されることが多いです。アロマンティックである人が必ずしもアセクシャルであるわけではないし、その逆もそうです。ただ、恋愛と性愛が似ていたり、混同されたりしてきたので、両者がセットで語られることがよくあります。  先日、友人と恋愛の話をしていたとき、「しゅんてさ、恋愛関係じゃなくて、友達関係を求めてるだけだよね」と言われて納得したし、よくよく考えると、パートナーとも最も仲のいい友達という感覚で一緒にいます。恋愛感情と思っていたものは、友人への感情と地続きのものでした。ちょうどアロマンティックに関連する図書を読んだり、他の友人と「他者との関係性を『恋愛』って固定されるのは嫌だよね」って話したりしていたのもあり、自分はアロマンティックなのかもと思えるようになりました。  と同時に、「気が多い」とか、「だらしがない」とか、「思わせぶり」とか言われてしまう理由もわかってきました。自分の場合、友達的な好きの量が増えていくと、その人とよく会ったり、一緒にいたりと、親密な関係になるので、世間から見れば、「恋愛」関係にある人が複数いるように見えるんだと思われます。実際、アロマンティックの男性は、「性的な『遊び人』だと思われるリスクにより悩みや葛藤を経験すること」があるそうです(松浦優『アセクシュアル アロマンティック入門』、集英社、二〇二五)。松浦さんの本では、それを「アロマンティックに対する差別や偏見」と言ってくれていたので、僕自身の問題というわけではないんだと、気が楽になりました。  今回、僕が自分のセクシャリティを考えることができたのは、友人とのコミュニケーションと関連する書籍との出会いでした。そうした出会いを通じて新しい知識や認識枠組みが得られなければ、僕は、自分の「恋愛」に関する経験を適切に解釈することができませんでした。このように解釈資源(知識や概念、認識枠組み)に偏りがあり、自分たちの社会的な経験(例えば恋愛についての経験)を適切な仕方で解釈できず、不利な立場(差別や偏見を向けられる)に立たされている状態を「解釈的不正義」と言います。この概念はM・フリッカーのもので、自己理解や他者理解、社会の理解など、認識や知識、解釈に関わる領域で生じる不正義(不公正な状態)を指す「認識的不正義」の一種です(ちなみに、認識的不正義には、偏見のためにその証言の信用度が不当に低く見積もられているという状態を意味する「証言的不正義」というものもあります)。つまり、認識的不正義の状態にあった僕の自己理解は、他者とのコミュニケーションと書籍からの知識によって是正されたということになります(認識的不正義とセクシャリティの関係については松浦さんも触れています)。  認識的不正義が解消されるメリットの一つは、自己理解が進んだり、悩みや不安の原因が明らかになったりする点です。これにより、僕がそうだったように、気分が晴れたり、楽になったりします。たかが気分と思うかもしれません。それでも、十代のセクシャルマイノリティにとって、気分や気持ちの問題は本当に重要です。二〇二五年のReBitによる調査では、対象になった十代のセクシャルマイノリティのうち、過去一年間に自殺を考えたことがある人は約五十%(二人に一人)、自殺未遂を経験した人は約二十%(五人に一人)にまでのぼります。必ずしも希死念慮の原因が認識的不正義であるわけではないでしょうが、自己を適切に理解できず、不安や自己否定、絶望が惹起されれば、希死念慮が生じても不思議ではありません。  けれども、十代の、特に初等・中等教育(小中高)の段階にある当事者は、他者や知識との出会いを通じて認識的不正義を解消することが難しい状況にあるように思えます。一つは、著しい教育格差が生じているからです。義務教育を含め似たような教育が行われているように見えても、私立か公立か、都市か地方か、あるいは裕福か貧困かによって、知識へのアクセスには歴然たる格差が存在します。大学・大学院などの高等教育へ進む割合についても格差があります。もちろん、都市部に住み、裕福で私立校に通っている人の割合は少ないので、多くの人は、豊富な知識や認識枠組みを得ることができず、認識的不正義の是正も難しい状況にあると考えられるのです。  また、居場所の確保も大きな問題です。セクシャルマイノリティも含めて、マイノリティとされる属性を持つ人は、「普通」とされる人々の輪に入ったり、自分の体験を「普通」の体験として語ったりすることが難しく、教育現場において、自分がいてもいいと思える居場所を見つけることが困難です。教育現場に居場所がないということは、知識や認識枠組みを獲得する機会を逸するということでもあり、やはりここでも知識へのアクセスが制限されることになります。  教育格差および居場所の問題はしばしば教育や社会制度、あるいは家族の問題として取り上げられますが(知念渉「地元で生きる若者たち──学校教育論の陥穽と日本社会の広がり」、『世界』、木下通子「学校にも図書館がある──子どもの居場所に人と本を」、同)、思っている以上に、個人の内面に深く関わる問題と言えます。そして、だからこそ、若い人(もちろん、それ以外の人も)の生き死にに直結する問題なのです。  こうした問題に対しては、例えば、居場所としての学校内図書館を推した木下さんのように、問題の解決につながる方法を提案しつづけることが重要です。それを実践することが重要になるのは言うまでもありませんが。そして何よりも、そういった問題のために、生きづらさを抱えながら生きている人がいること、生きられなかった人々がいることを、日々を生きるなかでけっして忘れてはならないと思うのです。(たかぎ・しゅん=北九州市立大学准教授・哲学・美学・ジェンダー)