2025/07/18号 7面

百人一瞬 Crossover Moments In mylife 71 ジャック・デリダ(小林康夫)

百人一瞬 小林康夫 第71回 ジャック・デリダ  わたしの知的な遍歴において――書かれたテクストではなく、生身の実存との交差という次元で――もっとも大きな衝撃が刻まれたのは、ジャック・デリダだった。実際、名のある人が夢に登場することなどほとんどないわたしであるのに、デリダだけは何度も現れた。つまり、ある意味では、デリダに取り憑かれていたと言ったらいいか。その華麗な脱構築(ディコンストラクション)の哲学に一言だけでも「言い返そう」、それにこちらから脱構築を仕掛けようとするのが、わたしの哲学の学びであり、PLAYであったと思う。  五年前に、フランス現代哲学とわたしとのかかわりを総括した「煉獄のフランス現代哲学」を副題とする二巻本(水声社)を上梓したのだが、上巻(『《人間》への過激な問いかけ』)はわが師であったジャン=フランソワ・リオタール(本連載第51回)が中心で、下巻(『死の秘密、《希望》の火』)のほうはなによりもデリダに捧げられていた。  そこでは一九八〇年夏のスリジー・ラ・サルのデリダ・コロック「人間の目的=終わり」の衝撃からはじまって、数々の出会い、夢、さらにはデリダが篠山紀信+大竹しのぶのヌード写真集『Light of the dark』(朝日出版社)に寄せた論考などについても言及しつつ、逝去の数ヶ月前にパリで行われたシンポジウムに参加したわたしがデリダが聴いてくれることだけを願って発表を準備したのに、すでに体調が悪化していたデリダがもう立ち会う体力がないとわたしに何度も「Par―don(ごめん)」と繰り返した最後の出会いの瞬間までを辿らせてもらった。その部のタイトルは「死の秘密、Merci」、わたしは彼の哲学との過激なクロスオーヴァーの連鎖を閉じたのだった。  語るべきことはすべて語ってしまった。Merci(メルシー)。その一語が、長いあいだ、わたしがその前に立ち続けていた門を閉じたはずだった。  だが、そうではなかった。門はあいかわらずそこに開いている。いや、より近くに開いている。  この二月に七五歳となったわたし。なぜか、リオタール(七三歳)デリダ(七四歳)とわが「師」たちが生きた時間を超えてしまったことを思わないではいられない。すると蘇ってくるのが、デリダが、逝去の一月前に行った対談(『生きることを学ぶ、終に』、鵜飼哲訳、みすず書房)の最後に述べている言葉――「生き残りとは生の彼方の生、生以上の生のことであり、私が展開する言説は死と狎れあうようなものではありません。反対にそれは、死よりも生きることの、すなわち生き残ることのほうを好む生者の肯定なのです」。  だが、こう言いながら、デリダは直後、末尾の言葉なのだが、人生の幸福な瞬間が「死の想念に向けて、死に向けて私を急き立てます」とも言っているのだった。死の切迫の下、デリダはそれでも「生き残る」という死を超えた生の肯定を断言する。  いまのところ死の切迫に曝されているわたしではないが、しかし「後期高齢者」とレッテルされた文字通り「生き残り」の時間を、まさに「師」デリダの激しい「肯定―否定」の二元対立そのものを脱構築した仕方で、限りなく静かに、激しく、生きることができないだろうか、と自問するのだ。  とすれば、あえて言ってみようか、「生の秘密、Merci」なんて!(こばやし・やすお=哲学者・東京大学名誉教授・表象文化論)