2025/03/07号 5面

文芸・3月

文芸 3月 山田昭子  橘の木は常緑樹であることから古来より繁栄の象徴として見なされ、『古事記』『日本書紀』にも登場し、縁起物として伝承されてきた。三月三日は桃の節句であり、雛飾りには桃の花と橘の木が添えられる。橘の木には「子孫繁栄」「不老長寿」の願いが込められており、それらは良いこと、望まれることとして見なされてきたわけだが、人はなぜ「子孫繁栄」を願うのだろうか。  中西智佐乃「橘の家」(『新潮』)は庭の橘に翻弄される一家の物語が、母である秋江、娘の恵実、息子の豊の視点で紡がれていく。ある時、拝み屋から、この庭の橘の木には力があると言われた秋江は、不妊に悩む近所の女性を家に招く。その女性が懐妊したことで、いつしか守口家の橘の木を拝むと子宝に恵まれるという噂が立つようになった。秋江自身は適齢期を迎え、周囲に急かされるままに結婚し子供をもうけたが、切羽詰まった様子で子供を願う女性たちを見ているうちに、「子孫繁栄をどうして人間は願うのか」という拝み屋の問いかけが気になりだす。本作が描き出すのは、妊娠というものが女性だけでは成り立たないにもかかわらず、妊娠できないことへの責任が女性にのみ課されることの理不尽さであり、それは「子孫繁栄」が良いことであると見なされてきたからこそ、見逃されてきた影の部分である。物語の最後、守口家を訪れた女性は、橘の木を拝みながらも困ったような顔で「私は、子どもはいりません」と告げる。それは「子孫繁栄」の伝承とともに引き継がれてきた負の連鎖に対する一種の〈反逆〉のようにも思える。そこには子を持つことによらずとも人の意志や願いを受け継ぐことで叶う子孫繁栄の新しい形が認められる。  朝吹真理子「夕方の神様」(『群像』)の「わたし」は四二歳の小説家であり、友人女性のかおちゃんに誘われ、その知人男性福王さんの家で佐区羅さん、奥津君と鍋を囲む。四人が囲む土鍋は、かつて船場吉兆から払い下げられたものだ。船場吉兆は二〇〇七年に発覚した賞味期限切れや産地偽装問題によって、翌年廃業に追い込まれた。本来めでたいしるし、縁起のよい兆しであるはずの「吉兆」が一転して悪兆となったのだ。うわべは良さそうに見せながら中身は〈偽装〉されたもの。本作の「わたし」と夫との間で交わされる「言葉」もそのようなものである。午後四時を過ぎて神社にお参りするのは恨みがある人だけだ、と人の行為に悪意ばかりを向ける夫に対し「わたし」は反発を覚えるが、逆らうことができない。さらに「わたし」はコロナ禍で生活に窮屈さを覚えながらも「結婚して二年経って、はじめてゆっくりふたりきりで過ごしている気がするね、悪くないね、たのしいね」と、気持ちとは裏腹の言葉を吐く。夫もまた妻が自分の支配下から逃れることを許さず、感染症を口実に外出を禁止していた。心の〈偽装〉に気づいた「わたし」は離婚を果たし、かおちゃんとずっと一緒にいたいという思いを自覚するが、それは自分の考えを偽ることなく言葉を発するかおちゃんに惹かれていたからだろう。真直ぐに交わされる言葉とともに四人で囲む鍋は幸福の象徴であり、そこに〈噓〉はない。  「言葉」によって真実が〈偽装〉されるという点では井上荒野「お母さんが片づけておくから」(『すばる』)にも通じるものがある。星野愛真音は春から父の転勤先である福岡の中学校に合格し、母とともに東京から引っ越すことが決まっていた。同居していた祖母は福岡行きを拒否するが、次第に認知症と思しき奇行が目につくようになる。だが、それらの言動は愛真音の母の言葉によって嫁いびりの「いやがらせ」「いじわる」とみなされてしまう。愛真音自身もまた体裁を気にして友人の前では祖母の言動をごまかすが、そこには福岡で三人で暮らすことを言外に切望する母親への忖度の気持ちもある。家庭内での母の圧倒的な発言力と行動力は、妻の言葉だけを信じ込み、実母を任せきりにしている父親の無責任さも浮かび上がらせる。本作において母が「片づける」ものとは何なのか。一見、日常的でむしろ親しみやすい一場面を切り取ったかに思えるタイトルが、読後に不気味なものへと転じるさまは秀逸である。  絲山秋子の、架空の地である「黒蟹県」を舞台にした連作小説『神と黒蟹県』(二〇二三年、文藝春秋)は、「全知全能」ならぬ「半知半能」の「神」を描いた傑作である。人々は古来より神々を崇め、様々な伝承を受け継いできたが、ここに登場するのは人間の姿で人々の日常に溶け込み暮らす神の姿だ。「神と古代人―⑴チカラベの子孫」(『文學界』)は、その続編である。神在祭を終え出雲から黒蟹県に戻り忘年会に誘われた神は、高牧からやってきた兄妹の栗彦、継音と出会い、二人が古墳時代の「双子の武人」の片割れであるチカラベの子孫だと聞いて興味を持ち、自分も高牧に連れて行って欲しいと申し出る。本作の魅力の一つは、人間にとって当たり前の日常を「神」の視点によって描くことで新たな発見をもたらす点だ。果たして神はそこで何を目にし、読者もどのような神を目にするのか。黒蟹県シリーズの一ファンとしても続きが待たれる。(やまだ・あきこ=専修大学非常勤講師・日本近現代文学)