読書人を全部読む!
山本貴光
第4回 言いたいことを言ってこそ
前回は、創刊号全体を大きく眺めてみた。もう少し詳しく見てみよう。
やはり目を惹かれるのは、1面を飾る佐藤春夫(作家/1892-1964/66)の評論である。「批評のない国 現代の書評とジャーナリズム」と題されており、タイトルからすでに面白い。添えられた和装の肖像写真が、憤然とまでは行かないまでも、上機嫌というふうでもないように見えるのは、文章の内容に引きずられた印象だろうか。そういえば、佐藤春夫の笑顔を見たことがないかもしれない。
「また困ったことをもちこまれておかげでにくまれぐちをきかなければならないらしい」と、のっけからぼやき節で始まるこの文章で、作家は日本が批評の発達しない国であるという以前からの見立てがいまも変わらないと前置きをする。また、書評を書かれる立場でも、書く立場でもよい経験をした覚えがないと述べた上で、「すべての書評も、批評的常識がうしなわれて、コマーシャリズムと、ジャーナリズムに支配された上に社交的おざなりが横行しているのが現代の一般の書評の傾向ではあるまいか」と書き手の怠慢を指摘し、返す刀で「読者にしても書評を批評としてうけとらず、うけとるだけの教養もなく、ただ評判記ぐらいのつもりで読んでいるのであろう」と読者もただでは済まされない。
「そもそも批評というものは、日常のおざなりの社交ばかりですましている人間生活の間で、本当のことをいってみたいという衝動的熱情をもつ人間の、本能的な仕事」であるという見立て。つまり、批評までおざなりの社交のようなことでどうするのか、というわけである。付け加えることがあるとすれば、「本当のこと」をどのように言い表すかに、それぞれの批評家なり書評家の芸もあるはずで、この点は本連載でも注目したいポイントである。
同じく1面に載る手塚富雄(東京大学教授・ドイツ文学専攻/1903-1983/55)の「ひとりごとの読書論」も書評を論じたエッセイだ。多くの人に向けた書評では、「さしあたりその本の死命を制さない範囲でけっきょくいいたいことはいっておく。いいたいこともいわないような、またはいいたいことも持たないような書評があるなら、そのこともわれわれは読みとるべきであろう」と、佐藤春夫の論に重なる指摘をしている。彼らが口を揃えてこのように言いたくなるような状況があったのだろうか。この点は同時代の日本で行われていた書評を、広く見渡してみる必要があるが、宿題にしておこう。
この手塚富雄の文章には、「騒音時代の読者に求められるもの」と副題がついている。これはテレビやラジオのようなメディアを念頭に置いてのこと。日本でテレビ放送が始まったのは1953年だから、「週刊読書人」創刊の年は、それから5年ほどの時期に当たる。NHKの受信契約が100万に達した年で、普及の途上にあった(当時の世帯数は約2100万)。
手塚は視覚・聴覚のメディアが普及する「騒音時代」には、「読書にだけ静寂が再現する」だろうと本や読書のもつ特徴を論じており、これはメディア環境がさらに変化した現在にも通じるようでもある。この連載を通じて、時代ごとの本や読書を囲む環境の移ろいも目にできそうだ。