2025/11/14号 2面

八木壯一氏、樽見博氏に聞く=「「日本古書通信」の九一年」

「日本古書通信」の九一年 終刊を前に、八木壯一氏、樽見博氏に聞く  「日本古書通信」が、本年十二月に刊行の通巻一一五七号をもって終刊となる。時代の変化を見つめ刊行を続けてきた歴史を改めて振り返り、八木書店ホールディングス/日本古書通信社代表取締役社長・八木壯一氏と、編集長・樽見博氏にお話しいただいた。(編集部)  ――「日本古書通信」が九一年の歴史に幕を閉じ、本年十二月号で終刊となります。  八木 父の敏夫が日本古書通信社を創業したところから、八木書店も始まっています。できれば続けていきたかったのですが、現在の出版界の情勢を鑑みて、今後の経営の立て直しも厳しく、私の年齢もあり終刊を決断しました。  ――「日本古書通信」は八木敏夫さんが創刊され、前社長の八木福次郎さんから、壯一社長と古書部の乾二社長が経営を引き継ぎ、二〇〇八年から十八年間、その中で二〇一二年には通巻一〇〇〇号も迎えられました。  八木 八木書店の子どもとして生まれて、私が「日本古書通信」をやっていくのかなと思っていたんです。そのつもりで立教大学新聞学科にも進みました。大学の頃は安保闘争に熱を傾けていましたが(笑)。大学を出て最初は証券会社に入ったのですが、その後、日本古書通信社に入社して一年ぐらい勤務しました。ただその頃、おじの福次郎が独立して日本古書通信社をやるという話になったので、それならば任せようと。ところがおじが晩年、加齢もあり引退することになって、私と弟の乾二とで、経営を引き継ぐことになったということです。  ――八木書店では、重要書籍の影印を多数刊行されていますが、それも古書への目が効いているからこそ、できた仕事なのでしょうね。  八木 日本は諸外国に比べて、古い時代の本が残っている国です。それをよりよいかたちで後世に伝えたいという思いが、八木の出版部を支えてきました。  日本の重要な本をよく収集していたのが天理大学図書館です。特に二代真柱の中山正善さんは、ものすごい勢いで収集しておられた。八木の出版部の土台を作ったのは、天理図書館です。天理との繫がりは、敏夫が独立前に勤めていた一誠堂書店時代からのものです。戦後になり、「日本古書通信」を復刊したときにも、二代真柱さんには力添えをいただいたと聞いています。非常な本好きで、店にもしょっちゅう来ていました。  天理図書館の蔵書を影印した実績から、正倉院や皇學館大学の複製なども手掛けることになりました。当時学長だった田中卓先生が力を入れてくれていいものを残せました。  樽見 古書価が上がっている本や手に入らない貴重書を復刻し、より安価に販売するブームが一時期あったのですが、それと八木書店の出版は一線を画していました。  ――現在の出版部の基となるのも、「日本古書通信」からのご縁なんですね。  八木 ほかにも尊経閣文庫など、いろいろなご縁が現在に繫がっています。その根本にあったのは、いい本をのちの世に残したいという気持ちです。一九七一年に刊行を開始した「天理図書館善本叢書」では、天理の先生方が力を惜しまず協力してくれて、古典籍の影印本を高精細カラー版という画期的なかたちで出すことができました。それが日本近代文学館の仕事に繫がり、立教大学の小田切進先生らの協力の中、復刻のデジタル化が叶いました。  樽見 一九六〇年代初期に、日本近現代文学資料の散逸を食い止めようという動きが起こり、小田切さんをはじめ、高見順や伊藤整、稲垣達郎らにより日本近代文学館が創設されますね。「善本叢書」に先んじる一九六八年には近代文学館とほるぷにより「名著複刻全集」の刊行が開始されます。近代文学作家一八五名の初版本を忠実に復刻するという大型企画でしたが、原本のカバーや箱の存在などわからないことが結構あって、古書部の乾二社長がアドバイザーとして編集に参加した。近代文学館ができて初めて、箱やカバー、しおりや月報などが、資料として重要だと認識されたわけですね。  本屋と研究者、図書館人が手を取り合い切磋琢磨した、理想的な時代だったと思います。  八木 「天理善本叢書」の編集は、楽しかったですね。天理で編集会議がふた月に一度あったんです。会議が終わった後は先生方と食事をして、京都駅まで帰りの車中でも話をして、最終電車で帰ってくる。夜行バスのときもあった。  ――古書の買入・販売と、復刻やデジタル化で本を残していく活動と、二つの柱があったわけですね。その両面の情報を伝え、人を繫ぐ役割を、「日本古書通信」は担ってきた。九一年という年月の間には、第二次世界大戦もありました。  八木 敏夫は昭和九年に「日本古書通信社」を創業し、「日本古書通信」の刊行を始めています。戦争が始まり、雑誌統合令で改題した「読書と文献」は、一九四四年十二月まで刊行しました。翌年八月が終戦ですから、ずいぶんギリギリまで出しましたね。敏夫は中国へ出征。後事を託されていた福次郎でしたが、戦況の悪化で休刊となります。終戦から一年後に敏夫が復員すると、上野松坂屋にかけあって古書部を開いています。「日本古書通信」の復刊は、その翌年の一九四七年です。  戦後、父はそれこそ、白タクのドライバーまでやって稼いでいた。上野松坂屋の飯田美稲支配人、一誠堂書店での先輩でもある反町茂雄さん、本郷の田中文久堂さん、柏林社書店など、いろいろな人の助けがあってできたことだと思います。  ――古書業界には独特の熱量を感じます。戦後の本に対する渇望、もっと遡ると、関東大震災の物不足の折、古本の価値が上がったそうですね。  樽見 それは古書業界にとって、大きな転機だったと思います。明治文化研究会が吉野作造等によって創立されるのですが、震災から復興するんだ、という意思で、重要文献が『明治文化全集』として刊行されるんです。そうした危機感は、「名著複刻全集」の刊行にも通じるものがありそうです。  八木 父は高橋邦太郎さんをはじめ、明治文化研究会の人たちとの繫がりが深かった。上野に住んでいた頃、高橋邦太郎さんの家が前だったから、私もよくお会いしました。  樽見 「日本古書通信」の初期ブレーンのお一人ですよね。ほかにも斎藤昌三さんや柳田泉さん、木村毅さんなど、文化研究会の関係者との関係が深い。長く続ける雑誌を作るには、ブレーンが必須だった。  ――「日本古書通信」は市場の相場速報、古書業界の動向などを知ることができる貴重な情報源として、全国の古書業者に喜ばれますが、創刊間もなく東京古書籍商組合から「相場公表」を禁止されてしまう。  八木 神田での古書相場を全国の古本屋に知らせるという業界紙だったところが、相場を知らせることが禁止されたため、古書に纏わる趣味的な記事を載せて読者を広げたんですね。  樽見 そのタイミングで業界誌から一般誌に転換したからこそ、九〇年もったのだと思います。「日本古書通信」は、「趣味と実益の雑誌」としてやってきました。古書目録によって古本屋がない地域でも、全国から好きな本が買える。個人はもちろん業者が、安く購入した品を売って儲けることもできた。ところが時代とともに「実益」の要素が減ってしまったんです。  かつて八八ページのうち四〇ページが古書目録で、翌年の十二月分まであっという間に掲載枠が埋まるという時代がありました。それが四半世紀の間に五、六ページまで減りました。  古本屋は、読まない本も買ってもらわないと、成り立たない商売です。ところが蔵書を持つ意味が昔に比べて薄れています。関東大震災や終戦後にはこぞって本を欲しがったけれど、阪神淡路大震災では本が凶器になり、情報はネットから取る、蔵書はなるべく持たないという思考が主流になっています。  八木 それでも、周囲のメディアはどんどん変化していくけれど、本は変わらないところこそが魅力なのではないかと思いますけどね。  ――ネット古書店が普及するようになって、同じ本について各店舗の値付けが並ぶと、なるべくきれいで価格の安いものを選ぶという、古書の買い方が変わったという話がありました。  樽見 ネット書店「日本の古本屋」の登場で、今まで貴重だと思っていた本が、案外世の中にあることが分かってしまったという側面もあります。しかもネットなら四六時中、電車の中でも、買うことができます。ただ本当は、本を買うとは、お気に入りの本屋さんで店主との交流の中で本に出合う、言わば思い出とともに買うものではないかと思います。時間をかけて手に入れるから、本への想いが強いものになる。  昔の地方の古本屋では、書棚にいい本は置かなかった。親しい人が来ると、奥から出してきて見せる、そういう商売です。本を入札するときにすでにお客さんの顔が浮かんでいると、昔の書店主は言っていました。  新刊書店に並ぶ本は、これまでの歴史の中で刊行されてきた本のごく一部です。何かを調べたいと思うときには必ず古書が必要になります。国会図書館のデジタルコレクションが拡充されましたが、それでもまだ重要なものが抜けています。すごく便利なものですが、これだけに頼るのは間違いです。  八木 その情報源として、「日本古書通信」が役立ってきたわけだよね。  ――同じ本を手にしても、人によって何をテーマに本を集めたのか、どのような角度から読んだのかが違ってきますよね。そこが「日本古書通信」の連載記事としても、愛読されたところだと思います。心に残る執筆者や記事はございますか。  八木 私は反町茂雄さんにつきっぱなしで、古本の会でも、天理図書館に行くのも、ずっと一緒だった。この業界のいろいろなことを知っていらした人で、文章も面白かったですね。  樽見 私にとっては、福次郎さんのほかには、青木書店の青木正美さんの影響が大きいです。先見性、古本の価値を見出す目を持っていた。  ――一〇〇〇号のときに、古書目録を出していただけなかった話はガツンときました。  樽見 古書店主としての覚悟を感じますよね。「古書目録を出すのは戦いなのだ」と。反町さんも青木さんも違うかたちで、それぞれの戦いをしていたと思います。  記事でいうと、地方の古本屋さんの協力も仰いで、全国の古本屋さんの紹介を丹念にしてきました。東日本大震災後は、福島出身の折付桂子が、その復興の様子を毎年記録してきました。一九七七年に最初の『全国古本屋地図』を刊行し、二〇〇一年の「21世紀版」まで出しました。それを出せなくなったのは、実店舗の古本屋が減ってしまったからです。この状況の中でも何かできないかと、昨年八月号からは「店舗のある古本屋一覧」を連載しています。  現在、古書組合に入っているのは約二〇〇〇軒ですが、実店舗があるのはその半分以下です。ただ即売会の開催数は多くなっていて、十月号には「全国古書即売会開催一覧」を載せました。古書店とお客さんとの接点が求められているのでしょうか。  ――終刊を惜しむ声は届いていますか。  樽見 届いています。終刊の発表後に、あと数回だけでも、と購読を始めた方もいます。  ――古書業界はどうなっていくと思いますか。  樽見 本の価値も、業者も、両極端になっていくのではないでしょうか。専門知識をもって価値のある本を扱う書店と、資本力で大量に仕入れるネット書店と。  同じ資本と能力があれば、他の商売のほうがおそらく儲けることはできる。それでも本屋という商売を選んだのは、本が好きだという気持ちが底にあるはずです。その気持ちを大事に、本を扱ってもらえたらと、「日本古書通信」を長年作ってきた者として願っています。  八木 この状況の中で神田の本屋はよくやっていると思いますよ。新刊書店と古本屋と両方あってこその神田だから、頑張って続けてほしいね。(おわり)