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山本貴光
第14回 長谷川如是閑と江藤淳の新年展望
1959年に進もう。和暦で言えば昭和34年である。1月1日の日付のある第256号から始まる。年末号が回顧なら、新年号は展望というのが相場だが、この頃の「週刊読書人」はどうだろう。
そう思って見てみると、全10面のうち1面から5面までを使って、1959年の行方を占う記事が載っている。1面を飾るのは「二つの世代の日本観――一九五九年の新春にあたって」という見出しで、長谷川如是閑(1875-1969/84/評論家)と江藤淳(1932-1999/27/評論家)がそれぞれ評論を寄せている。両者の歳の差はじつに57歳。明治から日本を見てきた人と、昭和に物心ついた人で、まさに「二つの世代」だ。
長谷川如是閑は「「綱引き」の勝敗の年――デモクラシー時代の日本人」と題して、その時々の出来事だけでは、日本人や日本文明の性格を判断できないものだと断った上で、戦前と戦後の状況を対比している。異なる価値観で国の進む方向を綱引きが起きる。1958年なら「読書人」でも1面で取りあげられた警職法や勤務評定を巡る争いをはじめとする綱引きがあったというわけだ。如是閑はこう見立てている。
「戦前の日本ではその綱引の当事者だけで事が決ったので、そこでは綱引きの連中以外の日本人は、はじめは高見の見物をし、どちらか一方が強そうに見えてくるとその側に加勢するという、すこぶる自主性のない国民だった」
SNSで毎日のようにさまざまな綱引きが生じては人が二つに分かれるのを目にする現状が図らずも思い浮かぶ。ところで1959年はどうかといえば、如是閑は、戦前のような高見の見物ではなく、個人個人がこの綱引きに参加するデモクラシーの時代になるだろうという。
江藤淳のほうはどうか。「乱世に生きるもの――行動を生む懐疑や批判を」と題して、われわれは乱世、つまり従来の価値観や規範では間に合わなくなった時代に生きていると評している。言葉遣いは違うが、如是閑と同じほうを見ているようだ。一方には旧来の価値観や規範にすがりつく連中がおり、他方ではそうした価値観に居心地の悪さを感じる者がいて、日常や政治のなかで繰り返しぶつかり合うとも。如是閑のいう「綱引き」と重なる見立てである。
対照的なのは文の結び方だ。如是閑が古代以来の大きな日本文明論に話を広げた上で、ふんわりと話を終えているところ、江藤淳のほうは、乱世には積極的に行動することで、間尺に合わない秩序を変えていくべしと指針を提示している。両者が生きてきた時間の長さがそれぞれの主張に映り込んでいるようでもあり面白い。
長谷川如是閑といえば、大正デモクラシーのジャーナリストで、『日本ファシズム批判』の著者という印象が強いせいか、1959年の「週刊読書人」に和装の写真入りで文章が出ているのを見かけて、一瞬狐につままれたような気分になった。とはいえ、彼は1969年に93歳で没するまで長命を保った人でもあった。他方の江藤淳は、私が慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスに通っていた1990年代前半に教壇で漱石を論じていた姿が強く目に焼き付いているせいか、27歳当時の写真にかえって戸惑う。
次回、もう少し1959年元旦号を読んでみよう。(やまもと・たかみつ=文筆家・ゲーム作家・東京科学大学教授)
