2025/09/19号 6面

映画のメティエ

映画のメティエ 筒井 武文著 北村 匡平  映画作家であり、映画批評家でもある筒井武文による初めての映画論集が満を持して刊行された。しかも、もっとも早い論考は一九九〇年だから、三五年にわたって書かれたものが集められている。一九八七年にサイレント映画『ゆめこの大冒険』を撮った筒井は劇映画が撮れなくなり、九〇年代に映画パンフレットや映画雑誌に多くの批評を書くことになった。  筒井の批評家としての卓越した資質は、『映画のメティエ』欧米篇/日本篇の2、3の批評を読めばすぐにわかるだろう。ならばなぜもっと早く書籍化されなかったのか。そう思ってきた映画ファンは多いのではないだろうか。著者によると「批評家と思われるのが嫌で、再び映画を撮る前に映画論集は出したくなかった」のだという。  もし映画批評がまだ輝きを放っていた時代に筒井の論集が編まれていたら、日本の映画作家たちの作り出してきた作品も変わっていたかもしれない、などと夢想する。事実、あとがきに付されているが、「黒沢清はふたりいらない」と彼が映画雑誌に書いたら、後日あの言葉で路線を変えたと青山真治がいったというエピソードが綴られている。もしも筒井の批評がなければ、あの名作『EUREKA』は生まれていなかったかもしれない。  筒井批評は、映画の作り手に対しても強力な影響をもたらす。なぜなら、彼の映画批評には、どう観るか以上に、徹底して「どう撮るか」という意識が溢れているからだ。欧米篇から順に確認していこう。  第Ⅰ部は「初期映画」でリュミエール兄弟やエドウィン・S・ポーター、アリス・ギイやF・W・ムルナウらの映画が論じられ、第Ⅱ部の「コメディ映画」では、エルンスト・ルビッチやプレストン・スタージェスらが取り上げられる。リュミエールのカメラ・ポジションと時間の問題、ポーターの編集と時間の問題が俎上に載せられ、ルビッチの切り返しの技法が論じられる。どこにカメラを置き、いかに演出し、どう編集するか。作り手と受け手が重なりあう二重の視点で作品が分析されてゆく。  第Ⅲ部は「ジャン・ルノワール」と欧米篇で唯一、映画作家の名が冠されている。筒井にとって一九八〇年代の最大の目標がルノワール全作品を観ることだった。曰く「未見のルノワールが上映されるという情報を得るや、ヨーロッパのどこにでも駆けつけた」。筒井批評のもう一つの特徴を指摘しておくなら、それは圧倒的な映画経験とシネフィルとしての突出した映画偏愛が迸る文体ということになろう。  撮影日やカット・ナンバーから編集や撮影を解析する『ピクニック』論には圧倒される。画面を詳細に紐解きながらカット割りや撮影技法を高解像度で分析したかと思えば、戦前の『十字路の夜』にフィルム・ノワール(アメリカ)、ネオレアリズモ(イタリア)、ヌーヴェル・ヴァーグ(フランス)の先駆性を見出す。縦横無尽に時代も国境も越えた作品が結びつけられてゆく。読者はその経験に裏打ちされた映画教養に唸らされるだろう。  その後も第Ⅳ部「ポスト・ルノワール」、第Ⅴ部「ヨーロッパ映画」、第Ⅵ部「アメリカ映画」というカテゴリーでまとめられている。どれも議論の密度が高い。続いて日本篇の紹介に移ろう。  第Ⅰ部の「古典映画」に収められているのは、成瀬巳喜男の映画空間における衣装のもつ力、山中貞雄の小道具の扱い、清水宏の正面から人々を捉えるカメラの後退移動、フィックスでつなぐ小津安二郎の映画における移動撮影、あるいは色彩表現。第Ⅱ部の「戦後映画」でも、たとえば川島雄三のカメラ・ポジションの特異性や現実離れした人物配置、加藤泰のローアングルや撮影テクニック、衣裳劇としての瀬川昌治の編集などが論じられる。  本書を通して演出=技術論が筒井批評の根幹にあることが見て取れる。第Ⅲ部の「撮影所崩壊期」は、筆者が思い入れのある日活ロマンポルノを牽引した神代辰巳や劇映画と実験映画を往復した寺山修司など、濃密な作家論が並ぶ。第Ⅳ部「世紀末の静かな革命」を構成するのは澤井信一郎論や相米慎二論などの作家論と、青山真治『Helpless』や黒沢清『CURE』などの作品論だ。  そんななかで特別な位置を占めているのが、筒井が東京造形大学時代からの「同志」であり、「ライバルのようなもの」と形容する第Ⅴ部の諏訪敦彦論である。このパートでは作品論のみならず、書評や全作品解説まで加えられている。演出の方法論が結果に密接に結びついている作家の映画のエッセンスに迫る論考である。  第Ⅵ部「二一世紀の映画作家」で現代の若い作家らがフォーカスされ、Ⅶ部「映画批評家論」では、筒井が映画の師と仰ぐ山田宏一論が収録されている。作品の相対評価を捨て、「まっしぐらに映画への愛へと疾走する」山田のメンタリティを受け継いでいることがわかる。その一方、作品を選別し、肯定と否定の言辞を好む蓮實重彥の『映画に目が眩んで』の書評においては「ときおり示される悪口には、やや退屈してしまう」と手厳しい。  いま、上から目線で作品を論評するスタンスは受けが悪い。作品を撮らない者が批評することにも時折批判がある。逆にいえば、映画を撮る者こそ、映画を語る資格があるといった風潮さえある(個人的には好ましくないと思うが)。奇しくも昨年、日本を代表する映画作家・濱口竜介の大部の映画批評本『他なる映画と』が刊行された。これも濱口がこれまで寄稿した映画批評やレクチャーを二冊に集成した、映画作家の視点から書かれた演出批評であり、本書と通底する視点が少なくない。  徹底して「撮る」視点に立つ本書のシネフィリー(映画愛)に満ちた批評の数々は、映画ファンにこの映画をどうしても観たいと思わせる欲望を喚起する力がある。と同時に、作り手にとっても映画をどう撮るかを考える最良の実践的書物になるに違いない。(きたむら・きょうへい=映画研究者・批評家)  ★つつい・たけふみ=映画監督、東京藝術大学大学院教授。監督作品に『レディメイド』『学習図鑑』『アリス イン ワンダーランド』『ホテルニュームーン』など。一九五七年生。

書籍

書籍名 映画のメティエ
ISBN13 9784864051880
ISBN10 4864051887