2025/07/18号 5面

メメント・ヴィータ

藤原新也著『メメント・ヴィータ』(タカザワケンジ)
メメント・ヴィータ 藤原 新也著 タカザワ ケンジ  「メメント・モリ」がラテン語で「死を想え」だということは、いまや多くの人が知っている。私がこの言葉を初めて知った時の印象はいまでも鮮烈だ。そのイメージは金色のカバーの写真集と結びついている。その写真集、藤原新也の『メメント・モリ』(一九八三)こそ、この言葉をこの国に広めたきっかけである。  本書のタイトル『メメント・ヴィータ』が意味するのは「命を想え」。藤原による造語だという。藤原はこの言葉を考えた理由を、現代は「メメント・モリ」という警句が存在理由を失いつつあるとし、その理由を二〇〇一年の九・一一、イラク戦争を起点として、「世界は快感原則の時代から死の時代へと突入しつつあるから」としている。つまり、生を謳歌する時代に死を想うことは必要だが、死が溢れる時代にはその必要がない。むしろ生をこそ想えということなのだろう。  『メメント・ヴィータ』はそのタイトルからして『メメント・モリ』と対になる作品だといえそうだが、本から受ける印象はかなり違う。『メメント・ヴィータ』はソフトカバーで分厚く、カバーには藤原の手になる絵画が使われ、中は文章のみ。写真は一枚もない。カメラを使ったイメージではなく、手で直接描いた絵を導入に、口から出た言葉でつくられた本なのである。対というよりも立体モデルの裏側にあるような関係なのかもしれない。写真・文章・絵画・書とジャンルを横断して活動してきた藤原の表現世界は2Dではなく3Dなのだろう。言い換えればこの二冊は藤原という球体の極と極なのかもしれない。  口から出た言葉、というのは収録されている文章がポッドキャストで配信したひとり語りをもとにしたものだからだ。コロナ禍から三年間、週に一度アドリブで行った音声のみの配信に、藤原は新たな可能性を見出した。書き文字ではなく、身体から出てくる言葉で語りかけるコミュニケーションを、藤原は〝命の声〟と呼んでいる。それは言葉と写真、動画が宙を舞うようなSNS時代と一線を画す、原始的で人間的な行為に私には思える。  思えば、藤原新也は一九七二年に『印度放浪』でデビューして以来、一貫してこの日本社会、ひいては欲望にまみれた資本主義社会と現代文明の宿痾をえぐってきた。オウム真理教の麻原彰晃と水俣病の関係に迫った『黄泉の犬』はその大きな収穫である。  この『メメント・ヴィータ』では、『印度放浪』や『黄泉の犬』を含めた、藤原のこれまでの仕事について言及しているほか、ウクライナ戦争や東京オリンピックなどの時事評論を折り込みつつ、少年時代の記憶に触れるなど、過去と現在とを行き来するような自在な構成になっている。世田谷美術館での個展「祈り・藤原新也」展(二〇二二)の準備と並行していたため、過去を振り返る機会も多かったのかもしれない。  藤原が長らく表現の中心に置いてきた写真についても書かれている。東京藝大の油画専攻に身を置いていた藤原がなぜ写真を選んだのかについて「絵画と違って移動しながら表現できるメディアだった」「外界との関係性がある」とその理由を簡潔に述べている。しかしそれだけではなく、藤原にとって写真は、時として現実の表面を突き抜け裏側を暴露する力があるメディアだったからではなかったか。その究極の一枚が『メメント・モリ』に「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」という言葉とともに収録した写真である。  写真集『メメント・モリ』から四十二年。生成AIが「写真風」のイメージをつくりだし、真実らしい噓がまかり通るこの時代に、藤原は声をベースにした言葉のみで伝えようとしている。その挑戦に藤原新也の「現在」が現れている。(たかざわ・けんじ=写真評論家)  ★ふじわら・しんや=文筆家・写真家・画家。東京藝術大学絵画科油画専攻に入学後、アジア各地を旅し『印度放浪』を発表。日本写真協会新人賞、木村伊兵衛写真賞、毎日芸術賞を受賞。著書に『東京漂流』『メメント・モリ』、『祈り』など。一九四四年生。

書籍

書籍名 メメント・ヴィータ
ISBN13 9784575319712
ISBN10 4575319716