2025/09/19号 5面

芥川龍之介あれこれ事典

芥川龍之介あれこれ事典 石割 透著 山本 莉会  文壇の花形として華々しくデビューを飾り、スター街道をひた走った作家。知性と洗練を兼ね備えた圧倒的な存在感を示しながら、繊細さゆえ若いままにこの世を去った文豪。世の中の芥川龍之介に対するイメージはそんなところだろうか。果たしてそれは事実なのか、高められ続けた結果の虚像ではないのか。彼の生きた時代から遠く離れた今、その問いに正答を導く術はない。芥川の没年は一九二七(昭和二)年で、まもなく没後百年を迎える。  私たち人間は、内と外の両方を知ることで他人をわかったつもりになる生き物である。どちらか片方では不十分さを感じ猜疑的になり、さらに言えば他者との差異の間にしか個人を作ることができない。彼の著書を読む行為はあくまで「内」に触れる術であり、周囲の証言、同時代を生きたほかの作家に比べどのような振る舞いをしていたかの「外」を同時に知ったとき、はじめて彼自身が立ち上るのではないだろうか。  本書は芥川の生きた間、その前後および彼に関わりのあった人々を総じてまとめた一冊である。芥川が何をどう書いたか、何を語ったかはもちろん、多くの項で「同時代の作家は」という切り口を用いる。たとえば「執筆・発表」における「発行部数・版数」の項では、菊池寛は『藤十郎の恋』(以下、いずれも新潮社)で五十四版を数え、藤村は『嵐』で六五版、有島武郎は『宣言』で一三〇版もの版数にのぼったとされているが、一方の芥川は生前、一〇版を超える単行本は珍しかったことが言及されている。「通俗小説は書かず、書けず、非常に売れた本は乏しく、原稿料が図抜けて高かった婦人雑誌にも、芥川はそれほど書かず、芥川は多くの収入はなかったと推察される」。文壇の花形として名声は高いものの、同時代の作家と比べると「人気」の意味合いに多少の違いが見受けられ、収入、暮らし向きの面では決して華やかでなかった事実が浮き彫りとなる。  交流の深かった菊池寛、室生犀星ほか、同時代を生きた作家らの振る舞いについても記述が及ぶ本書は、近代文学好き、文豪好きには発見の多い一冊だ。「校正」の項では芥川が作品の誤植に頭を悩ませていることが伺えるが、一方で夏目漱石は単行本の校正には無頓着で門下生らに任せていたこと、漱石自身が校正したものが最も誤植が多かったなどのエピソードも盛り込まれている。「文明・文化」では、「自動車」や「ダンス」など、大正時代に登場あるいは新興したものと芥川がいかに関わったかを紹介する。新しい興りは往々にして無秩序なるものであるが、「ラジオ」の項では音楽・演劇面における著作権問題に書簡で意見を寄せていたことなど、当時の彼を取り巻いていた環境、彼の思想が及んだ範囲についてもうかがい知ることができる。  評伝・評論を「辞典」の形式で行なっている本書は、各項目のみ読むことも可能だが、全て通して読むことで立ち顕れる芥川は実に鮮やかな色彩をしている。作家としてはもちろん、趣味嗜好や関わりの深い街に至るまでをくまなく論じていることがそうさせているのであろう。  この分量をこの正確さでまとめ上げるのに数十年がかりの仕事になることは疑い知れない。著者の執念にも似た熱量、気迫から、人間の底知れない恐ろしさを感じる。どうか差異の中から立ち上る芥川自身の姿に目を見張ってほしい。彼は死んで作品だけが残った。しかし、私たちはまだ彼について知ることができる、本書はその望みでもある。(やまもと・りえ=文筆家)  ★いしわり・とおる=駒澤大学名誉教授・日本近代文学。著書に『大正文学断想 芥川龍之介を核として』『〈芥川〉と呼ばれた藝術家』『芥川龍之介 初期作品の展開』、編著書として『芥川龍之介全集・全二十四巻』『芥川龍之介書簡集』『芥川龍之介随筆集』『父帰る・藤十郎の恋 菊池寛戯曲集』など。一九四五年生。

書籍

書籍名 芥川龍之介あれこれ事典
ISBN13 9784823412868
ISBN10 4823412869