2025/02/28号 8面

追悼=李恢成(黒古一夫)

追悼=李恢成 黒古一夫  李恢成氏が亡くなったとの報に接し、最初に想起したのは、氏が最期まで思い続けていたであろう「見果てぬ夢」は、果たしてどこに着地したのかということであった。  氏は、早稲田大学(文学部露文科)に入学してすぐ朝鮮総連系の学生団体(在日朝鮮人総連合会)に加盟し、おのれが「在日」であることから蒙った様々な差別的・屈辱的な状況を「変革」すべく、現実政治の世界に深く関わっていく。しかし、第二次大戦後の世界を二分する「冷戦」構造のあおりを受け、祖国が南北に「分断」されていることから生じる様々な障碍に遭遇することによって、「現実政治」による「変革」に絶望し、「言葉=表現」によっておのれの陥った窮状を何とか脱しようと、文学の世界に転位する。  1969年6月、氏は日本の敗戦に伴ってシベリアから北海道(札幌)へ引き揚げてきた朝鮮人家族の在り様を、北朝鮮系の組織から離れ、今は大学院生の妻と子供の三人でつつましやかに暮らす主人公が語る『またふたたびの道』(投稿時の題名『趙家の憂鬱』)で、第12回群像新人文学賞を受賞して現代文学の世界にデビューする。その後、氏は堰を切ったように『われら青春の途上にて』(長編 70年)、『伽倻子のために』(同 同)、芥川賞を受賞した『砧をうつ女』(短編 71年)、そしておのれの現在地を核にする長編エッセイ「北であれ南であれわが祖国」(72年)や長編の『約束の土地』(73年)、同じく長編の『追放と自由』(75年)を上梓した後、1976年、満を持したように約3000枚の大長編小説の『見果てぬ夢』(全6巻 77~79年)に着手し始める。  第1巻『禁じられた土地』、第2巻『引き裂かれる日々』、第3巻『はらからの空』、第4巻『七月のサーカス』、第5巻『燕よ、なぜ来ない』、第6巻『魂が呼ぶ荒野』、これらの大長編作品で氏が試みたことは、現実政治に関わっていた時代のマルクス・レーニン主義の文献をはじめ、ロシア文学(ドストエフスキー等)や日本の戦後文学作品を渉猟することで手に入れた「自生的(土着的)社会主義」思想に基づき、南北に「分断」している祖国の状況を止揚した統一国家(社会)の実現は、果たして実現可能なのか、と世に問うことであった。  しかし、この李氏の「試行」は、南北の国家が共に「分断」を解消させる方向に進まず、「対立」を深めるばかりの現実の前で「挫折」を強いられる。『見果てぬ夢』の完成から約10年、1987年11月に金賛丁や宋秋月といった在日文学者らと創刊した「在日文芸 民濤」の第6号(89年2月)に『夾竹桃』(未完)を連載するまでのおよそ10年間、その間に法政大学での講義録『青春と祖国』(81年)や紀行文集『サハリンへの旅』(83年)を刊行しても、氏が小説を書かなかった(書けなかった)のも、『見果てぬ夢』の試みをどのように現実に着地させるか、考え続けていたからだと推測される。  そして1990年代に入ると、李氏は『サハリンへの旅』によって否応なくおのれが「ディアスポラ(故郷離脱者)」であることを自覚させられたことから、自分たち「李家」と同様に朝鮮半島から日本やカザフスタンなどで暮らさざるを得ない「朝鮮民族(人)」の運命に思いめぐらす長編を書くようになる。『流域へ』(92年)、『百年の旅人たち』(94年)、『死者と生者の市』(96年)は、その成果であった。  そんな李氏の『見果てぬ夢』以後の歩みを見ていると、65歳になった2000年を期して、「ディアスポラ」として、また「在日朝鮮人作家」として生きてきた軌跡のすべてを曝け出すように、「自伝小説」と言っても、また「私小説的全体小説」と言ってもいい約8000枚を超える大長編『地上生活者』(全6部 第1部『北方からきた愚者』、第2部『未成年の森』、第3部『乱像』、第4部『痛苦の感銘』、第5部『邂逅と思索』、第6部『最後の試み』)の完成に、20年の歳月をすべて注ぎ込んだその胆力に感服せざるを得ない。氏は、かつて構想(夢想)した「見果てぬ夢」の着地点が『地上生活者』を完成させるところにある、と確信を持ってこの大長編に挑んでいったのだろう。  そんな李氏の「懊悩」する自己と共に幾多の作品内に登場してくる「祖国」や「民族」、「自生的社会主義」、「革命」、「分断国家の統一」といった硬質な言葉(思想)は、一部を除いて戦後文学者の多くが避けてきた主題であった。だからなのか、氏の文学はその総体で「戦後文学」と言われるものの全体を「異化」するものとして屹立していた、と言っても過言ではない。それほどに李恢成という作家は大きな存在であった。氏の奮闘ぶりを「民濤」創刊以来比較的身近で知り、『〈在日〉文学全集』(全18巻 2006年刊)を編む時に様々なアドバイスをいただいた者として、特にそのように思う。(くろこ・かずお=文芸評論家)  李恢成氏(り・かいせい/イ・フェソン=作家)二〇二五年一月五日、誤嚥性肺炎のため死去。八九歳。  一九三五年旧樺太(サハリン)・真岡生まれ、早稲田大学露文科卒。六九年、「またふたたびの道」にて群像新人文学賞を受賞。七二年「砧をうつ女」で芥川賞、九四年『百年の旅人たち』で野間文芸賞を受賞。「伽倻子のために」(七〇年)は、小栗康平監督によって映画化(八四年)された。