2025/02/21号 7面

百人一瞬 Crossover Moments In mylife 51・ジャン=フランソワ・リオタール

百人一瞬 小林 康夫 第51回 ジャン=フランソワ・リオタール  白地に写真が一枚、大臣執務室のデスクに座っているアンドレ・マルローの写真。その下に「伝記」の一語。上には「Signé Malraux」という大きなタイトル。一九九六年にグラッセ社から出版された三六〇頁もの大著。書いたのは、わたしの「哲学の師」であったリオタール先生。  表紙をめくるとまたタイトル・ページ、そこに、青いインクの手書きで、わたしへの献辞「ジャン=F・リオタールからの変わることのない友情」と書かれている。  この本、――書名をわたしは『署名マルロー』と訳すのだが――それは、はっきりした記憶がないが、先生がわたしに送ってくれたものだ。というのも、わたしが最後に先生にお目にかかったのは九五年の夏で、ちょうど先生がこの本を書き上げたところだったからだ。わたしは、そのことを、先生が亡くなったときに書いた追悼文で触れているのだが、どうして先生ほどのオーセンティックな哲学者がその晩年にマルローの「伝記」!を書くのか、「みんな驚くけど、おまえならわかってくれると思ったよ」と言ったのだった。  だが、わたしはなにがわかっていたのか。なにもわかっていなかったのではないか。  去年の秋、四半世紀ものあいだ忘れていた先生からのその「最後の課題」が回帰してきた。東京都立大学の西山雄二さんから、大学の紀要で「リオタール生誕100年」の特集を組むのでなにか書いてください、と頼まれた。そうなると、わたしとしては、未提出の「課題」に応えないわけにはいかない。九月、ひと月かけて、三六〇頁を熟読した。難しかった。わたしが慣れ親しんだ哲学的な「文」(これはリオタール哲学の核心の概念なのだが)ではなく、マルローの幼年時代から人生の最後までを丁寧に辿っていくまさに「準伝記的な」記述。そこでは、たとえば何気ない形容詞がマルローの「実存」の全体に波打ち、響き渡っている。多少はフランス語ができると思っているわたしなのに、とんでもない、ひとつひとつの語の響きがまるでわかっていないと思い知らされる毎日。やはり先生の「課題」はきびしい。九月末には読み終わっていたのに、それから二ヶ月、なにも書くことができなかった。  だが、締め切りは迫る。結局、年末から年始にかけての数日、『署名マルロー』の最初の章(それはマルローと母親との関係を「上演」するものなのだが)のたった数頁を中心にして、それでもわたしはこの本を読もうとしたという証拠を提出するだけの、ほとんど「言い訳」のような(論文ではなく)エッセイを書いた。そしてそれを、先生の書名にならって、(日本語のテクストなのに)わざわざ仏語で『Contrsigné Lyotard』(「連署リオタール」)と題させてもらった。  これほどまでに遅れて……でも、そのエッセイの最後に書いたように「友情は時間を超える」とすれば、あのとき先生が献辞として書いてくださった「友情」という言葉に、少しだけでも応答できたと思いたい。  読む、そして書く……それは時を超えたクロスオーヴァー!なのかもしれない。  リオタール先生とわたしの関わりのすべては、拙著『《人間》への過激な問いかけ 煉獄のフランス現代哲学・上』(水声社)にまとめられている。東京都立大学(西山雄二研究室)の紀要『Limitrophe』第8号(リオタール特集号)は今月に刊行され、また西山研究室のホーム・ページでも公開されている(https://nishiyama.fpark.tmu.ac.jp/cn9/pg1043.html)。(こばやし・やすお=哲学者・東京大学名誉教授・表象文化論)