2025/06/13号 6面

木に「伝記」あり

木に「伝記」あり 瀬田 勝哉著 藤岡 悠一郎  本書を読み終えると、著者の膨大な作業とそれによって紡がれた巨樹の歴史に圧倒された。著者の瀬田勝哉氏は日本中世史を専門とする歴史家であり、『木の語る中世』(朝日選書)や『戦争が巨木を伐った』(平凡社選書)など、木を対象とする社会史・文化史についての著作を刊行してきた。  本書は、岡山県の旧美作国の山中にある菩提寺に生育する一本の巨樹イチョウを主役とする「個木史」を描いた作品である。「個木史」やタイトルにある「木の伝記」という言葉は初めて目にするフレーズであり、読み始める前は少々不思議な本であるという印象を抱いていた。しかし、物語が進むにつれ、著者がこのような本を書こうと思った動機やその意味が丁寧に語られ、その趣旨に共感を覚えた。そして、この木を巡ってどのような事件が起き、時代とともにこの地域の社会がどのように移り変わっていったのかについて、謎解きのような面白さに満ちた話が進行していく。具体的にどのような内容であるのか、概略を紹介したい。  本書は一〇章で構成されている。第一章では、著者がイチョウの研究を始めることになった経緯が述べられる。きっかけとなったのは、筑波大学を定年退官された堀輝三氏からの一通の手紙であったという。堀氏は生物学の観点から日本のイチョウの渡来時期を推定したいと考えていたが、自然科学の方法のみでは限界があるため、歴史・民俗学の方法で協力してほしいということであった。  第二章では、イチョウ研究に協力することを決めた著者が、歴史研究者としてイチョウ巨樹にアプローチする方法が紹介されている。具体的なイチョウ巨樹・巨木の事例として、青森・深浦町、岩手・久慈市、大分・玖珠町、東京・大田区のイチョウが取り上げられる。それぞれの地域に生育するイチョウの史料を集めていく過程が描かれているが、個々の木に関する史料を探すことの困難さや史料の乏しさに直面する様子が示されている。  第三章から第十章までが、本書の中心となる内容である。岡山県の旧美作国の山中にある菩提寺に生育するイチョウを巡る様々な事件や地域の動向を、イチョウが本地に根付いた時期と考えられる中世から江戸時代の享保・元禄年間、江戸後期から明治期、昭和から平成の時期まで、史料を基に考証する。各章の中では、徳川吉宗と本草学、史料を残そうとする郷土史家の奮闘、イチョウの来歴に関するDNA解析結果との整合性、イチョウのこぶをめぐる民俗伝承、菩提寺の縁起にまつわる法然上人の伝承、天然記(紀)念物指定など、多岐にわたる歴史的な事件やそれをめぐる解釈などが歴史考証のもとで復元され、興味深いストーリーとして描かれる。  そして、最後の章の中で、この菩提寺のイチョウ巨樹とその近くに生育する天明イチョウがクローンの関係にあることがDNA鑑定から明らかになったというエピソードが紹介される。このことの意味を著者は、生物としてのイチョウそのものの生命力、現代自然科学の力、文学史料の力が組み合わされたことで、二本のイチョウにこれまでとは違った意味が与えられ、新しい世界が開けたと締めくくっている。まさに本書は、これら三つの力とそれらを結び付けた著者の力によって織りなされた作品であった。  最後に、本書の意義について私見を述べたい。本書が優れた歴史書であることは間違いないが、評者の専門分野ではないため、その点の講評はできない。しかし、歴史の観点で本書がもつ極めて重要な意義として間違いないのは、菩提寺イチョウの史料を集成し、その記録を後世に残したことである。著者は、本書を執筆するきっかけとなった「美作高円史」を書き留めた郷土史家の寺阪五夫氏の功績を繰り返し強調している。寺阪氏が「享保の事件」を記した古文書の価値の大きさに気づいて原文を書き写したことで菩提寺イチョウに光が当てられたのである。また、著者は「おわりに」の中で、東京渋谷区の広尾で立ち上がった「一本の樹プロジェクト」を紹介し、記録を残すことがいかに大切かを語っている。本書は著者を含む幾人もの人々の想いによって紡がれた「木の伝記」なのである。(ふじおか・ゆういちろう=九州大学大学院比較社会文化研究院准教授・地理学)    ★せた・かつや=歴史家・日本中世史および木の社会史・文化史。武蔵大学名誉教授。著書に『変貌する北野天満宮』『洛中洛外の群像』『戦争が巨木を伐った 太平洋戦争と供木運動・木造船』など。一九四二年生。

書籍

書籍名 木に「伝記」あり
ISBN13 9784022631398
ISBN10 4022631392