2025/05/02号

AIを美学する:なぜ人工知能は「不気味」なのか

 AIについての本は多い(そして、その多くはビジネス関係本である)。だが、AIについて、それは何かと問うことと、それは私たちにとっていかなる意味を持つのかと問うことは、根本的に異なる。本書は後者についての書物である。「美学する」という言葉は見慣れないかもしれないが、感性的=身体的人間という視点から哲学的に考察することを意味する。  AIをめぐる語りはこれまでユートピアとディストピアという両極の間で繰り広げられてきた。とりわけ、人類は自らの創り出した人工物によって滅ぼされるという物語は人口に膾炙している。これに対して、著者が求めるのはこうした支配的な物語から逃れる可能性である。  ディストピアの原型はフランケンシュタイン(正確には、フランケンシュタイン博士の作った怪物)であるが、著者によれば、人工物にはそもそも人間に復讐するという意図はない。人工物が人間の領域に迫ってくるという図式は根本的に誤っており、両者を対立として捉えないことが必要である。著者はカントを引き合いに出して、人工と自然が対立するのではなく、自由と自然が対立する、と主張する。  AIの特質は人間の思考とは異なる仕方で問題解決するところにある。この点を明らかにするために、著者は人間(さらには生命)のあり方に着目する。人間はそもそも身体に埋め込まれて(さらには、身体が環境と新陳代謝する限りで、環境に埋め込まれて)存在している。したがって、人間の知能もまた身体に埋め込まれており、私たちは多くの場合、なぜ自分があることを知っているのか、できるのか、明示的に説明できない。ところが、知識や能力のなかには、記号操作として身体から分離できる部分もあり、これが機械と人間に共通の「知能」の領域をなす。そして、この領域においてAIは人間をはるかに超え出る。著者によれば、後者の領域は人間の知能のうちのごく一部をなすにすぎないが、それは明示的に説明できるために、記号が世界を覆っているかのような錯覚が生じ、人々は後者の知能を知能それ自体と見なし、それを過度に追求する。著者はそれを能力至上主義と呼び、AIの発展はわれわれに能力至上主義的人間観からの脱却を促している、と述べる。  それでは、AIにはできない芸術創作が重要となるのであろうか。ここでも著者は問いの転換を求める。著者はカントの芸術論に依拠しつつ、AIは芸術に似た物を作れるか否かという問いは、なお芸術を「騙す」ものとみなす誤り誤りを犯していると考える。「AI美空ひばり」は見る人を騙すのではなく、「美空ひばりらしさ」という、人々が了解していながら明確に表現できなかった共通理解をはっきりと示す。それは隠されたものを顕わにするゆえに、フロイト的な意味において不気味でありつつ、しかし同時に発見であり解放感を伴うであろう。なお、生成AIにおいて記号が「地に足の着いたもの」となったように思われるのは、生成AIの扱う自然言語が接地しているからである、という著者の主張は重要である。  AIは私たちに、合理的推論(すなわち、先の第二の知能の働き)は自分たちが引き受けるので、人間は別のことをやりなさい、と語りかけている。別のこととは、先の第一の知能の働きであり、具体的にいえば、「知能における未分化な状態」、すなわち「無駄」とも見える「遊びの状態」を取り戻すことである(ここには、人間は遊ぶときに真の人間である、というシラーの言葉が反響している)。知能は、自立的にして閉鎖的なプログラムではなく、個々の環境や他の知的存在との相互作用のうちにあり、したがって身体に埋め込まれた知識を発動させることこそ重要となる、と本書は閉じられる。  かつてAI研究の黎明期にあって哲学者の黒崎政男は、AIの研究は翻って人間知性の特質を明らかにする、と述べた。黒崎の著書を併せ読むことによって私たちは、この四〇年にAIはめざましい進展を遂げたにもかかわらず、研究の核心に変わりがないことを知る。(おたべ・たねひさ=放送大学客員教授・美学・芸術学)  ★よしおか・ひろし=京都芸術大学文明哲学研究所教授・美学・芸術学・情報文化論。著書に『〈思想〉の現在形 複雑系・電脳空間・アフォーダンス』、共著に『〈こころ〉とアーティフィシャル・マインド』『情報と生命 』など。一九五六年生。