書評キャンパス
乗代雄介『二十四五』
伊藤 大遥
仙台で行われる弟の結婚式の前日、姉であり本作『二十四五』の語り手でもある「私」こと阿佐美景子は、両家の食事会のさなか、自身が受賞した文学賞の選評について訊ねられる。ところが景子はそれを読んでいない。「みんなが私を見つめて次の言葉を待つ中、弥子ちゃんの持っている箸の先がゆっくり閉じるのが目についた。ここにいる誰にも伝わらないのがわかりきっていながら少しあせるのは、そのくせこれから話す言葉で、ここにいる善良な人たちだけでなく、私自身のことも納得させようと欲張る気がゼロにはならないから」。会話を交わしながら考えているのは会話のことだけではない。見える景色や周囲の反応、そして「伝わらないのがわかりきって」いるような内省など、ひっきりなしに飛ぶ想念が次の言葉を用意する。「私が叔母と果たせなかったこと――そんなことを考えているから、こんなことを口走った。「読んでほしくなんかないんです、誰にも」」
景子の書く試みが、何も書かず彼女の書いたものも読まずにその生を閉じた叔母に向かってなされる以上、叔母以外の読者を突っぱねるのは当然かもしれない。身近な弟にとっても叔母との記憶を辿ろうとする姉の心情はわからないし、叔母と旅行するはずだった土地を訪れて「楽しいの、悲しいの」と自問する景子自身にもそれはわからない。真実を語る「地の文」には決してたどりつけないのだ。遺跡保存館の再現映像が、旧石器時代の焚火の様子を伝えるにも実情がわからず、俳優の顔も焚火の手元も映さないという「こんな工夫をするしかない」と苦しい言い訳を余儀なくされているように、書くという工夫は「あの時あの場所あの思いへ私を帰そうはずもない」。しかし、ならば書くことによってもたらされるものとは何か。本作が、貼りつくような喪失の悲しみや切なさとともに、爽やかさや喜びにも溢れているのは、書くことに伴う変質が、未来に向けられたポジティブなものでもあるからだろう。
小説の終盤、景子は、行きの新幹線で初めて会った平原夏葵と、夏葵の地元にある雷神山古墳に行く。そこはかつて夏葵が幼稚園の遠足で歌の練習をした場所だった。「ともだちになるために/人は出会うんだよ」という歌詞に、「弟の結婚式に来て「友達」なんて言葉をこんなにたくさん聞くことになるとは思わなかった」と思い出す。過去を留める遺跡は新しい記憶を積もらせながら変わっていく。変わっていく姿を見せ合えたとき、人と人は友達になれる。「私たちがそれぞれに思い出しているものを交換して互いに涙ぐむ義務などありはしない。そのせいでこんな風に、ここで過ごした時間を忘れたり濁したり澄ましたりすることを止められなくなるとしても」。夏葵と景子が詳しく語り合うことはない。全部はわからないし、これからも自分自身に対してのみ説明を繰り返すのだとしても、「大体わかった」なら友達になれる。
「何にも知らないくせに」から「大体わかる」を受けとめ合うことへと「私」が変容していくのを小説上で見届けたとき、読者は、「勝手に書かれた」文章のはずのこの小説がはじめから、弟や家族や自分自身の小さな変化を刻み込み続けてきたことに気づくだろう。景子に訪れた変化と、読み手に訪れた変化。そのどちらもが遊びと希望に満ちたものだと実感できたとき、思わずこの小説に、「友達です、ずっと」と呟きたくなった。
書籍
書籍名 | 二十四五 |