2025/10/10号 6面

シン・アナキズム

シン・アナキズム 重田 園江著 松尾 隆佑  ミシェル・フーコーや社会連帯主義の研究で知られる政治思想史家のアナキズム論だが、章立ては一風変わっている。ジェイン・ジェイコブズ、ヴァンダナ・シヴァ、経済思想史を研究する桑田学との対談、ねこと森政稔、カール・ポランニー、デイヴィッド・グレーバー。一般にアナキストだと考えられているのはグレーバーくらいで、森はアナキズム研究者、ねこはねこである。標準的なアナキズム思想史と明らかに異なる本書のねらいは何か。  グレーバーの訃報に接した二〇二〇年、著者は「アナキスト集め」を思い立つ。その活動や著作にアナキスト的な側面を見出せる人物なら、収集対象に含まれる。ここでのアナキズムは理論ではなく生の様式を意味しているから、列伝形式で各人の生涯と思想を語るのがふさわしいというわけだ。アナキズム「的」な部分に着眼するアプローチは森と似ているが、著者が関心を寄せるアナキズムの価値は一層ハッキリしている。それは資本主義的な社会関係からの逸脱と、ローカルな日常実践における新しい共同性の創出である。  ジェイコブズは多様な人が行き交う雑然とした空間に都市の活力を見出し、街を空洞化させる画一的な開発計画に抵抗した。シヴァは巨大資本を利するグローバル化を批判し、植民地主義的手法で生物多様性の破壊をもたらすアグリビジネスに立ち向かった。ねこを愛する森は初期アナキストを論じ、非主権的な秩序に関する政治思想史研究の道を広げた。ポランニーは万物を商品化する市場社会を「悪魔のひき臼」にたとえ、その出口を協同組合の拡大による経済の民主化に探った。グレーバーは非人間的帰結を生む負債のモラルを疑い、その背景に国家の暴力的支配があると主張した。彼女たちは共通して、社会を今とは違うかたちで組織化する可能性にまなざしを向けている。  塔や観覧車のような高みから俯瞰してしまえば、人間はただの点(dot)としか見なされなくなる。これを拒否する著者はあくまで歩行者の目線を保ち、具体的な人間と社会関係に根差した自治を重視する。映画『マッドマックス 怒りのデスロード』では、富と権力を独占する男性支配者から一旦逃れた女性たちが、どこにも楽園がないと知って元の場所に戻り、支配者を倒して新しい社会をつくる。このように「行って帰ってくる」こと、つまり遠くのユートピアを探すのではなく、今ある場所と資源を使って別の秩序を生み出すことに、著者はアナキズムの核心を見ようとするのだ。  不定期のウェブ連載を書籍化した経緯もあって(桑田との対談は『現代思想』からの再録)、著者の語り口はフランクである。さながらゼミ終わりにコーヒーでも飲みながら教員の怒濤のおしゃべりに耳を傾けている気分を、読者は味わえるだろう。議論の道中では、該博な知識とプチ・ブルの暮らしに裏打ちされた映画や漫画やねこの話題が、縦横無尽に繰り出される。それらは思いつきの寄り道でありつつ、興味深いつながりも見せる。帯の裏には「「思想史」がこんなに面白くていいのか?!」とあるが、むしろ本書こそ思想史本来の面白さを体現していると言えよう。  もっとも、現代資本主義と相反する小さいことや遅いことを再評価するにしても、狭い共同体ゆえの生きづらさは避けがたい。著者自身が指摘するように、ローカルな集団のエコロジカルな自治は閉鎖的性格を伴いやすく、気候正義などグローバルな課題との接続も容易でない。暗く雑多な街路が放つ魅力もあるだろうが、明るく清潔で防災対策やバリアフリーの行き届いたビル群の方が、多様な個体に優しい。ごった返す都市で流動的・偶発的な調和に貢献するには、その場に合った対応を即興で行う能力が求められる。きっと著者が描くアナキスト的紐帯にこそ息苦しさを覚える人もいるはずだ。単なるdotでよいから気ままに生きたいとの願いは、果たして非アナキスト的なユートピアの希求に過ぎないのだろうか。(まつお・りゅうすけ=宮崎大学教育学部准教授・政治学・政治理論)  ★おもだ・そのえ=明治大学政治経済学部教授・政治思想史・社会思想史。著書に『フーコーの穴』『ミシェル・フーコー』『連帯の哲学 Ⅰ』(渋沢・クローデル賞)『隔たりと政治』『フーコーの風向き』『真理の語り手』など。

書籍

書籍名 シン・アナキズム
ISBN13 9784140912959
ISBN10 4140912952