文芸批評家・立教大学教授の福嶋亮大さんが『世界文学のアーキテクチャ』(PLANETS)を上梓した。500頁を超える本書で福嶋さんは、小説の根拠を理論的かつ複数の視点から探索し、批評による《世界文学》の翻訳を試みる。刊行を機に、翻訳家・日本大学准教授の秋草俊一郎さんと対談をお願いした。(編集部)
秋草 『世界文学のアーキテクチャ』は浩瀚な書物ですね。古今東西の文学作品について、500ページ以上もの批評を書かれている。本書はメールマガジンでの連載がベースになっているとのことですが、どういうモチベーションで執筆を始めたのでしょうか。
福嶋 きっかけはPLANETSの宇野常寛さんに、「世界文学をテーマに連載してくれないか」と声をかけてもらったことです。僕は今まで世界文学というフレームワークで物を考えたことはなかった。でも、宇野さんとしては、僕を揺るがす変化球を投げたかったんでしょう。結局、多少の無理難題を言ってでも書き手に背伸びさせる編集者がいないと、何もかも予定調和に収まって閉塞してしまう。彼のような冒険心のある編集者がいないと、生産的な偶然性や意外性なんて絶対に生まれないんですね。
この本も出来栄えはともかく、自分が書くべき仕事だったと今は感じています。偶然に始まった仕事が必然性を帯びていった。
秋草 欧米では、2010年代くらいから世界文学論の刊行が相次いでいます。たとえば本書でも取り上げられているデイヴィッド・ダムロッシュ『世界文学とは何か?』やフランコ・モレッティ『遠読 〈世界文学システム〉への挑戦』のような研究書があります。しかし福嶋さんは、それらとはまた別の角度から本書の執筆を始められていますよね。
福嶋 ダムロッシュやモレッティ、エミリー・アプターあたりは、秋草さんが翻訳・紹介されてきた世界文学の研究者ですね。翻訳が形作るグローバルなネットワークを「世界文学」として捉えるタイプの研究で、僕も参考にはしています。でも、この本の意図はむしろ、夏目漱石の『文学論』や柄谷行人の『日本近代文学の起源』を《世界文学論》として読み替えることにあった。要は、日本の批評を世界文学化するというチャレンジです。
現在の社会を支配しているのは、グローバルな経済ネットワークです。そのプラットフォームの上に多文化が並んでいて、それらが翻訳で交流する。それがダムロッシュたちの世界像だけど、漱石や柄谷は当然そんな世界像に還元されない。僕の本も、日本人の文学理論の延長線上で書いたつもりです。
秋草 日本の批評と世界文学をどう接続するのかが本書をつらぬく大きなテーマですね。
福嶋 そもそも明治時代の文学者は、最初から世界そのものと対峙している。それは漱石の『文学論』だけではなくて、森鷗外の『諸国物語』や上田敏の『海潮音』のような翻訳アンソロジーもそうです。彼らはネーションを超えて世界の文学を扱っているし、かつ読者に思想的な潮流をつかませる工夫も施している。その意味では、明治文学ですら《世界文学》と出会っていた。僕の本では、ナショナリズムが本格化する前の世界認識が重要だと書きましたが、もともと明治の作家にはネーション以前の世界像があったわけだから、そこから考え直せばいいんです。
秋草 「ネーション」についてもう少しうかがいたいです。
福嶋さんは本書のあとがきで、このように書かれています。
「近代小説はネーションの文学ではなく《世界文学》として始まった。内面的な主体の形成は、あくまで世界との接近遭遇の後に来るものである。ならば、近代文学を分析するには、本来は世界文学を前提にしなければならない」。
世界文学がそもそも近代文学に先駆けていたというのが福嶋さんの主張です。ベネディクト・アンダーソンが『想像の共同体』で分析したように、新聞などのメディアを通して、遠く離れた人々が同じ時空を共有しているという意識が生まれ、ネーションが形成される。そして事後的に、国民文学が発見されていく。こういったごく一般的な国民文学の理解と、福嶋さんのご著書における世界との関係をあらためて説明願えませんか。
福嶋 鋭いご指摘ですね。アンダーソンは、後発近代国家をモデルにして、小説がネーションを形成したと論じている。それ自体は正しいと僕は思いますが、その逆は成り立たないと思う。つまり、小説はネーションを作るとしても、ネーションが小説を形成するわけではない。なぜなら、ナショナリズムが本格化する前から、すでに小説は存在していたからです。
たとえば、18世紀のデフォーやスウィフトは別にイギリスというネーションを形作るために小説を書いていたのではない。実際、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』の主人公はグローバリズムに誘惑されてロンドンを飛び出すわけだし、ガリヴァーはさまざまな奇怪な国を旅する、諸世界の狭間にいる人間です。デフォーやスウィフトの関心は、ナショナリズムの建設というよりは、グローバリズムへの内在的な批判にある。
18世紀の文学の背後にあったグローバリズムは、19世紀の国民国家の時代にいったん後景化される。それ以降は、小説とナショナリズムが不可分になっていきます。アンダーソンや柄谷さんが強調したのは、そのことですね。でも、18世紀もしくはそれ以前を出発点にすれば、小説=ネーションの等号を外すことができるのではないか。
秋草 「近代」をもう少し厳密に定義してもらえないでしょうか?
福嶋 19世紀を近代の模範とするならば、18世紀は近代以前になってしまう。でも、デフォーやスウィフト、フランスで言えばモンテスキューやルソーやディドロを近代以前というのは、やはりおかしいでしょう。むしろ近代の幅を拡張したほうがいい。そうすることで、国家や主体、内面などから始まる文学観を相対化できるはずです。主体はむしろ後付けのプログラムで、世界のほうが先行している。
あと、僕の考える《世界文学》は、標語的に言えば《諸世界文学》なんです。18世紀の小説の根拠となっているのは、新世界と旧世界の間のギャップです。ヨーロッパとアメリカという異質な世界どうしが衝突して、ヨーロッパの自己認識が不安定化する。ディドロは植民地化によってヨーロッパはむしろ脆弱化したと言っている。強いように見えて弱いというのは、ロビンソン・クルーソーの特徴でもある。そのクルーソーの引きこもる島のような空間に《世界文学》は存在しているわけです。
その見地から言えば、文学の価値基準も当然変わってくる。この本はドストエフスキーやトルストイよりも、18世紀のデフォーやスウィフト、19世紀でいえばメルヴィルなどをより高く評価している。というのも、ドストエフスキーやトルストイはやはりナショナリズムの作家で、ロシアという風土と絶対に切り離せませんからね。多文化主義で全部並列化するのでは面白くない。《世界文学》というからには、やはり価値の尺度を戦略的に変えないといけないと思う。
秋草さんは、近代文学の模範はどのあたりだと思いますか。
秋草 近代文学の模範ですか……。たとえばフランスのヴィクトル・ユーゴー『レ・ミゼラブル』などはどうでしょう。本書の第6章「長い二日酔い」でも論じられるように、『レ・ミゼラブル』にはあらゆる要素が詰め込まれている。主人公ジャン・ヴァルジャンほかキャラもたっていて、読み物としても面白い。そのためエリート層に限らず幅広い読者層を得ました。
福嶋 フランス文学を見るとわかりやすいですが、19世紀は18世紀的な「海」がいったん封鎖された時代だと思うんです。ディドロの『ブーガンヴィル航海記補遺』は、タヒチ島に拠点を設定している。しかし19世紀、特にナポレオン戦争以降は、そういうグローバリズムが一回閉じる。代わりに『レ・ミゼラブル』だと、終盤になってパリの地下が出現するわけですね。
要するに、本来ならば外に向かうはずのエネルギーが内向していって、ユーゴーの場合は地下に向かう。あるいはフローベールにしても、田舎の村の虚栄をどんどん解剖して細分化していく。ドゥルーズふうに言えば、モル的に主体を統合していくのではなく、主体がバラバラに分割された分子的な戯れが出てくることになる。こういう19世紀文学の意義も、18世紀を基準にすると、もっとはっきりしてくるのではないかと思います。
秋草 福嶋さんの今の話には面白い指摘がたくさんあったのですが、おそらく読者の方もついていくのが大変だと思うので、整理しつつ進めたいと思います。まず、この本でも最初に言及されているように、世界文学を提唱したのはゲーテだというのが定説です。ゲーテが弟子のエッカーマンに語ったところによれば、「国民文学はもう古いから、世界文学に目を向ける必要がある」という。つまり世界文学の概念は、国民文学のアンチとして出てくる。
ですが福嶋さんの考えでは、国民文学の前から世界文学は存在していた。我々は先に世界と出会っていて、その後国民文学ができたという読み方をしています。グローバリズムの方が先行していたのだ、と。
福嶋 ゲーテは、18世紀的世界像の一つの完成者として読んだほうがいいと思います。ゲーテ自身、ヴォルテールやディドロなどフランスの作家に触発されていた。逆に、19世紀的なナショナリズムからは時代錯誤にも見える。これはカール・シュミットがどこかで言っていたことですが、要はゲーテは政治音痴だというんですね。おそらくゲーテは、ネーションによって世界が分割されてゆく時代、つまり「諸帝国の時代」から「諸国家の時代」への移行を正確に理解できていなかった。どちらかというと、18世紀的なコスモポリタニズムを足場にしていたのではないかと思います。
秋草 コスモポリタリズムとグローバリズムの違いについても簡単にご説明くださいますか。
福嶋 ベンヤミンがパリを「19世紀の首都」と言っているでしょう。18世紀において、それに相当するのがロンドンだと思う。交易の中心であり、まさにコスモポリスだった。デフォーの小説もこの「18世紀の首都」から出てくる。と同時に、このコスモポリスの破局まで、デフォーはちゃんと捉えているわけですね。
実際、デフォーの『疫病の年の日誌』(邦題は『ペスト』)だと、ロンドンがペストで封鎖される。疫病にネーションや国境などは関係ない。ペストはまさにグローバルな存在です。デフォーはグローバリズムの明るい面だけ捉えているのではなく、それによって生じる弊害や負の側面も含めて、小説に描いている。
ポストコロニアリズム批評の立場からは、デフォーは植民地主義の尖兵というようなレッテルを貼られがちです。けれど、そう単純ではない。グローバリズムのゲームが飽和し、どこにも行き先がなくなった後で、クルーソーは無人島に行っている。つまり、デフォーはグローバリズムの限界を書いたわけで、その点で多面的な「思想家」なんです。女性を主人公にした『ロクサーナ』や『モル・フランダーズ』も非常に先駆的です。
秋草 《世界文学》について、福嶋さんは本書で魅力的な定義を行っています。「世界文学とは諸世界の狭間の文学」である、と(446頁)。また、ほかのところでは世界というものがプログラムされている作品が世界文学だという言い方もされています。トルストイやドストエフスキーの作品より、デフォーやスウィフト、メルヴィルの作品を福嶋さんが評価している理由もこの辺りにあるのでしょうか。
福嶋 そうですね。ドストエフスキーよりもデフォーやディドロやメルヴィルのほうが重要だというのが、この本の帰結です。もちろん、トルストイやドストエフスキーが嫌いなわけじゃないですが、ロシアだったらゴーゴリやゴンチャロフを評価しています。
その一方、狭い空間を描いていても世界文学にはなる。要するに、空間的に広いとか狭いとかは本質的ではなくて、あくまで「狭間」がポイントなんです。実際、この本はフォークナーの『八月の光』を論じて終わります。アメリカは、いってみれば新世界の中に旧世界があるような国ですね。一つの国に二つの時間が流れていて、フォークナーはそれを狭い空間に圧縮している。多文化主義的というよりは多時間主義的な時空のなかに「狭間性」が生じる。フォークナーこそ世界文学だと言うのは、そのためです。
秋草 新世界と旧世界の衝突やギャップ、複数の世界の「あいだ」を抱え込んだ文学ということですよね。本書は『八月の光』が「最後にして最初の世界文学」という評で締められる。そもそも『八月の光』は、一九三二年に刊行された小説です。『八月の光』が「最後にして最初の世界文学」ということは、福嶋さんのいう《世界文学》は、一九三〇年前後で頂点を極め、その後はもう終わってしまったということでしょうか。
福嶋 本当は20世紀後半の文学、それこそ秋草さんの研究されているナボコフには言及したかったんですが、これ以上本を分厚くするエネルギーがなかったということですね。
あと、本書には、文学書は思想書として読まれるべきだという問題提起もあります。要は、カントやヘーゲルの著作を読む要領で、デフォーやゲーテを読んでもいいのではないか。もちろん、彼らの小説は歴史に根ざしたものだけど、時代的な制約を超えて自由に読んだっていいわけです。そもそも、狭間性を表現するのが、狭義の文学である必要はないわけですね。どちらかというと、僕は狭間性という概念を引き出すために文学を使っている。文学を読む態度を変更することが、この先も文学を生き残らせる工夫だと思います。
秋草 小説を思想書として読むという視点は、私にはまったくなかった発想です。世界文学を解説する時にありがちなのが、リアリズムの次にモダニズムがあって、さらにポストモダニズムが……という文学史的な流れに沿う形です。思想書として読んでいくというのは、新しいアプローチの手法です。
福嶋 繰り返しになりますが、小説というのは国民国家に限らず、もう少しいろんな根拠を本当は持っているはずなんですね。小説の根拠を探索して、かつ複数化したほうがいい。アンダーソンや柄谷さんの理論的な枠組みは修正されるべきです。
ところで、秋草さんは『「世界文学」はつくられる』で、世界文学をトレーディングカードゲームの「デッキ」として捉え、カードゲームの要領で読んでいく提案をしていますね。本書はある意味でその実践というか、思想家のカードとして文学を読んで、配列しているとも言えるんです。
秋草 拙著への言及をどうもありがとうございます。『「世界文学」はつくられる』では、異なる時間や場所で書かれた作品を組み合わせて新しい効果を生みだす話をカードゲームのデッキに喩えていますが、福嶋さんの本は章ごとにキーワードを出して、それに沿った作品を組み合わせながら論が進んでいく構成になっている。
福嶋 同じ作家でもデッキが異なれば、違う評価が可能になるわけですよね。ゲーム感覚で文学のデッキを組むというのは、いろいろな場面に応用できそうです。秋草さんは文学教育に関心を向けておられますが、やはり昔のように文学を教えても学生はなかなかついてこないから、ゲーム的な軽さを入り口にしたほうがいいという感じでしょうか。
秋草 私はどちらかというと外国文学が好きだったので、高校、大学と主に外国文学を読んでいました。自分は外国文学者の端くれだという意識もあります。その一方で、翻訳書の刊行点数も減少をつづけており、日本では外国文学は読まれなくなりつつあるようです。外国文学の翻訳や研究、教育をどう継承していくのか。昨年刊行した『教科書の中の世界文学』もそういった問題意識でまとめた本です。
秋草 『世界文学のアーキテクチャ』について、まだいろいろお尋ねしたいことがあります。本書で一番気になったのは、第4章「中国小説の世界認識」です。中国の明清時代の小説と日本の江戸時代の小説を論じている章で、知らない話が多く勉強になりました。ただ、他者の存在とその狭間が世界文学を決定づけると考えた時、全体の図柄として第4章がどういう意味を持つのか。その点は気になっています。
福嶋 第4章の絵柄は全体を通してみると、ちょっと浮いているかもしれませんが、要するに「諸世界性」が浮き彫りにできればいいわけです。ギリシャであれ中国であれ、それぞれの文化にはそれぞれの世界像があった。我々は、文化は狭いローカルなところからだんだんユニヴァーサルなものに向かうと考えがちですが、それは錯覚です。司馬遷の『史記』やギリシャのヘロドトスの『歴史』なんかは、ローカリズムでもナショナリズムでもなく、いわばいきなり世界から始めている。世界性を前提にしていないと歴史はそもそも書けないわけです。
しかし19世紀くらいになると、だんだんと資本主義が浸透し複数的な世界像もグローバルマーケットに一元化されていく。そうなる手前のところで、それぞれの文化における世界の理解の仕方を再現したかったわけです。
秋草 文学といっても、各文化において定義はまったく異なります。そもそも西洋で、現在のような形の文学が「文学」として定着したのも、そんなに昔の話ではない。
秋草 福嶋さんからしたら当たり前のことかもしれないけれど、私の専門領域外のことなのでお尋ねしますが、そもそも中国の人々はどのようにネーションを意識していったのでしょう。日本の場合は、広く括ると漢字文化圏の時点で中国の影響のもとにあったわけですが。
福嶋 中国でネーションに対する意識が明確になっていったのは、教科書的に言えば19世紀くらいでしょうね。それまでは一応帝国として存在していたけれど、アヘン戦争の敗北などを経て、世界が諸国家の集合体であるということを否応なく認識させられていく。
ただ、そこも本来はそんなにスパッと線が引けるものでもない。日本にしても徳川時代の国学くらいは最低限射程に入れておかないと、ナショナリズムはわからないですね。先ほど、ヨーロッパの19世紀を理解するには18世紀を起点にする必要があると述べましたが、日本も同様です。明治維新から近代を考えるのではなく、17世紀~18世紀ぐらいからの幅で見たほうがいい。この本でも上田秋成や本居宣長にはそれなりに紙幅を割いています。
秋草 漱石や鷗外といった当時の文化人が漢籍と西洋文学の知識を両方とも持っていたことから考えても、そのお考えにはうなづけます。
本書では論じられていない部分ですが、20世紀、21世紀と進んでいく中で、西洋と東洋の狭間はどうなっていったと福嶋さんは考えますか。
福嶋 フランシス・フクヤマが『歴史の終わり』で、歴史にはもうファイナル・アンサーが出たのだから、あとは自由民主主義に基づく世界を実現すればよいという話をしましたね。冷戦時代にはイデオロギー的に二分割された世界があり、その余剰の部分が第三項となって、トライアングルのような形で世界像が考えられていた。冷戦も終わった今、この三角形の構造も消えて歴史は一つに収束してゆくのだ、と。しかし、このフクヤマの楽観論は明らかに間違っていたわけで、むしろ諸世界性、もしくは多時間性が再び現れることになるでしょう。要は、人類の時計が一つに統合されることはなく、いわば複数の時計を持った諸世界が併存することになる。
僕は別に、世界文学がもう一度華々しく復活するとか言っているわけではないんです。ただ、諸世界化しつつある現代の状況において、これまで文学が蓄積してきた認識や思想が別の仕方で機能する可能性もあるのではないか。そういうことを問い直したつもりです。
秋草 これからの世界は分断が進み、その狭間がどんどん広がっていく。だからこそ、かつての文学が直面した問題を改めて学び、再考する必要があるということですね。実際、文学がずっと描いてきた人種的な問題は全然解決していない。貧富の差に至っては、一つの国の中で複数の世界が存在しているような状況です。分断が進んでいくばかりで、多くの問題が未解決のままになっている。
そう考えると、フォークナー『八月の光』が《世界文学》だという意見に納得するところもあります。ちなみに東アジアの20世紀文学では、何かそういう目覚ましい作品はあるのでしょうか。
福嶋 やっぱり魯迅なんかは、ちゃんと読み直されたほうがいいんじゃないでしょうか。魯迅もギャップを生きた作家で、西洋的な人権意識には完全に逆行しているような「人間が人間を食べる」という世界を『狂人日記』で描いている。要はアガンベンが言うところの「ホモ・サケル」のような、法的に保護されていない裸の人間に接近していた。こういうホモ・サケル的存在へのオブセッションは、魯迅に始まり、最近だと莫言や余華、閻連科にも繫がっていくわけで、中国文学の重要な背骨だと思います。そのへんは、この本では書けなかったのですが。
秋草 個人的に意外だったのは、本書では西洋文学がメインで扱われているところです。第4章と第5章「エスとしての日本」以外は、ほとんど西洋文学を取り上げている。
福嶋 僕はフランス語やドイツ語の文学を原書で読めるわけではないので、翻訳者には感謝しています。そもそも、批評そのものがいわば翻訳のようなものです。もちろん、日本語の翻訳で文学を読むと、いったん全部フラットになっちゃうんだけど、それを逆用するというんでしょうか。
秋草 本書の場合、福嶋さんは翻訳でかなり大量に読まれているので、モレッティが提唱する、翻訳でもいいのでたくさん読んで大きな分析をするという手法、「遠読」の実践のような印象も受けました。
秋草 翻訳の話が出たので、翻訳について少しお話をうかがいたいです。福嶋さんは本書の「はじめに」で、翻訳によって世界文学が「豊か」になったり、「実りある」状態になるというダムロッシュの意見は抽象的であると批判されています。その通りだと思いますが、一方で第三部「思考のテーマ」の「イントロダクション」で言及されるジョイス『フィネガンズ・ウェイク』のような、翻訳不可能な作品もある。その翻訳不可能性は、『フィネガンズ・ウェイク』がジョイスによる翻訳集合体であることに由来しています。他方で世界性を抱え込んだ作品が世界文学であるのなら、翻訳されることを前提にした作品が世界文学であるという考え方をする研究者もいます。
福嶋 この本自体が翻訳の力によって成り立っているので、翻訳という行為を批判する権利は僕にはないし、そんな意図もありません。ただ一つ思うのは、翻訳を前提にすると、結局グローバルマーケット=世界という図式に陥りがちだということです。何カ国語で翻訳されたという宣伝が、作品の価値を決めてしまう。僕はそういう状況に抵抗したいんですね。
グローバルマーケット=世界というのは、西側の世界観にすぎない。それこそフクヤマ的な「歴史の終わり」を追認しているだけです。しかし、今はそこにさまざまな形で亀裂が入りつつある。単一のグローバルマーケットを超える視座が必要になってきていると思います。
その一つの手掛かりとして、僕はメルヴィルの『白鯨』を読んでいるわけです。『白鯨』こそが『フィネガンズ・ウェイク』と並び立つような異常な翻訳文学であって、巨大な鯨を翻訳し、そこから多面的な情報を引き出してゆく。メルヴィルの鯨とは、グローバルマーケットに属しながら、なおかつそこには還元されない「世界」なんです。身の程をわきまえずに言えば、メルヴィルが鯨を翻訳したように、僕は批評で世界文学を翻訳したかったわけです。
秋草 グローバルマーケットに受け入れられることが作品の評価軸になってしまうと、翻訳されやすい作品が良いということになってしまう。文体に引っかかりがなく、表現も柔らかい。そういう作品が良い作品ということになってしまうのは、つまらないですよね。
冷戦時代には、社会主義リアリズムや思想小説を国家が擁護し、それらを大量に印刷して広め、翻訳も行わせるような状況があった。グローバルマーケットに対抗する大きな力として、イデオロギーが存在していました。では21世紀において、グローバルマーケットに対抗するような力はあるのか。たとえばですがマイノリティの人々やLGBTQの人々が、アイデンティティ・ポリティクスのために文学作品を書くことが、グローバルマーケットの抵抗になると考えるむきもあるのかもしれませんが、福嶋さんはどうでしょうか。
福嶋 その枠組みをさらに包摂するような、よりスケールの大きい作品が出てくるといいのではないかと思います。アイデンティティ・ポリティクスをゴールにしてしまうと見え透いているし、面白くもないので、アイデンティティ・ポリティクスをスタートとして、それをさらに本当の意味でクィアにしていくといいんじゃないか。
その視点から言っても、『白鯨』はとても先進的な話です。主人公のイシュメールと食人種のクイークェグは、人種の違いがあるけれど対等なカップルのように描かれるし、二人が同衾するホモセクシュアルなシーンもすごい。だからこそ、『白鯨』のような作品はもっと掘り下げて読まれてほしい。ちなみに、僕は未見ですが、ジェイク・ヘギー作曲のオペラ『白鯨』がちょうどメトロポリタン歌劇場で上演されているらしいですね。ともかく、時代に合わせていろんな形に変容させながら、作品の遺伝子が受け継がれていけばいい。そのための一つの拠点として、この本が役に立てば何よりなんですけどね。
秋草 ありがとうございます。途中で20世紀後半の文学についても論じたいというお話があったかと思いますが、次回作はそのあたりをお書きになる予定なのか、最後にお聞かせください。
福嶋 さっき言われたように、この本はフォークナーで終わっているのですが、本当は20世紀後半も含めたかった。仮に小さな続編をやるとしたら、日本の戦後文学が面白いかもしれません。大岡昇平や武田泰淳みたいに、戦地に兵士として赴いた作家は、それこそ「狭間性」を生きていた。つまり、彼らには世界文学性がある。そういう視野で戦後の日本さらには東アジアを考え直してみたいと思っています。(おわり)
★ふくしま・りょうた=文芸批評家・立教大学文学部文芸思想専修教授・文学・中国思想。著書に『復興文化論』『厄介な遺産』『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』『百年の批評』『ハロー、ユーラシア 21世紀「中華」圏の政治思想』『感染症としての文学と哲学』など。一九八一年生。
★あきくさ・しゅんいちろう=翻訳家・日本大学大学院総合社会情報研究科准教授・比較文学・翻訳研究。著書に『「世界文学」はつくられる』『アメリカのナボコフ』など。一九七九年生。
書籍
書籍名 | 世界文学のアーキテクチャ |
ISBN13 | 9784911149034 |
ISBN10 | 4911149035 |