2025/08/29号 3面

日本人の条件

大杉重男氏の寄稿(7月18日号)への反論(丸川哲史)
大杉重男氏の寄稿(7月18日号)への反論 丸川 哲史  大杉氏の文章は主に鎌田哲哉氏への批判を主要とするものであるが、その中で私への批判(6月13日号の早尾貴紀氏との対談について)もあり、異論があるので以下記す。大杉氏は鎌田氏に対して「古典的な東アジア的専制主義者」と批判、また丸川は易姓革命を称揚しているとして批判、そこで「どんな「易姓革命」が起きようと、現在の中国の「東アジア的専制主義」は持続する」、と述べている。ここで使われている東アジア的専制主義は、ドイツ共産党だったウィトフォーゲルがマルクスによる非ヨーロッパ社会、特にアジアの社会構成を歴史の低次段階(停滞)として示した「東洋的専制主義」の論を踏襲したものである。周知のようにウィトフォーゲルは米国へと亡命し、冷戦下は反共主義者として活躍する人物であった。ちなみに筆者はウィトフォーゲルのアジア論については一考に値するものとも考えている。いずれにせよ、大杉氏はマルクス主義者反共論者の世界史の発展段階説に依拠した用語を何の躊躇もなく、乱暴に使う人のようだ。この「東洋的専制主義」は、外からの現代中国論として常套句ともなっている「一党独裁論」と親近性を持つことは言うまでもない。さて、大杉氏は私に向けて、「天」と「民衆」の間に上下関係を持つものとして「易姓革命」を批判するのだが、正確に言わせてもらえば、そのような構図が歴史的に変形を被りながらどこかで中国社会に生きていることを批判的に検討したいもの、と考えている。ただ、最も重要なことは、「天」の概念が皇帝の上にあるという論点を大杉氏がくみ取ってくれていない点である。早尾氏の対談でも述べたが、つまり皇帝という身分を「天」に融合させることにより、日本天皇制は中国に対して相対的有利を観念的に僭称したということ、これが最も大きな論点である。私が言いたいことは、つまり日本的権力=天皇制が持つ、こういった中国との関係で生じた文脈の奇妙さである。竹内好が言ったように、日本は実は中国的なものから「自立」していないのである。私は大杉氏や鎌田氏のようには、革命を鼓吹したいとは思わない。度重なる革命の犠牲を考えれば、革命など安易に主張できない。ただこうは言える。日本で王朝転換がなくそのまま「一世万系」が持続したかに見えたのは、「易姓革命」に対する反革命的措置があったからだ。天皇家は「姓」を持たない。先の「天」の問題をさらに詳説すると、日本においては「天」を人格化したことにより「天」を失ったと言える。つまり中華の論理では、人格支配者を超越した「天」の概念があるからこそ(易姓)革命が生じる。言い換えれば、「天」への信頼がないので日本では革命が起こし難い、と極論できるかもしれない。だから、大杉氏は天と民衆との上下関係をもって私を批判したが、天皇と民衆との関係ではその通り。しかし問題は、その間に人格支配者があって、易姓革命は上下関係というよりも、むしろ循環構造として把握される類のものであるということ……。その他言いたいことは山ほどある。両者のジェンダー論的同質性、戦後憲法の構造のこと、そして私に対する植民地主義論のこと等々。大杉さん、私の本を読んでください。(まるかわ・てつし=明治大学教授・東アジア文化論)

書籍

書籍名 日本人の条件
ISBN13 ‎9784908568459