2025/11/07号 3面

論潮・11月(高木駿)

論潮 11月 高木 駿  高市早苗が自民党の総裁選に勝利し、公明党の連立離脱など悶着がありながらも、日本で初めての女性総理大臣として選出されました。「初の女性首相誕生という歴史的瞬間」、「ガラスの天井をやぶった」など、政治における女性の活躍を強調する報道があった一方で、高市が掲げる理念や方向性、政策に対しては「極右」や「超保守」という見出しをつけ、危機感を表明する報道もありました。高市政権がどんな政権になっていくのかは今後注意深く監視する必要がありますが、すでにいくつか懸念すべき事態が生じています。  その一つが「国家情報局」の創設です。各省庁の関係機関を統括し、インテリジェンス(情報活動、諜報活動)を強化することが目的とされています。すでに存在する情報機関である内閣情報調査室により権限を持たせるかたちになると言われています。関連して、スパイ防止法の制定も検討されています。こうしたインテリジェンスの強化は、国家の安全や国益を守るために必要です。何もしないというのは、昨今の国際情勢では現実的ではありません。しかしながら、歴史が教えてくれるように、国が情報を管理するということは、国によって私たち市民の思想や言論、表現、行動が制限、統制される可能性があるということを意味します。私たちの自由に関わる問題なのです。  特に学問の自由はそうした制限や統制の標的になりやすいと考えられます。二〇二〇年には当時の首相であった菅義偉が日本学術会議の会員人事に介入し、政府が学問の自由を侵害するという出来事が起きています。それ以前にも、研究費の削減や人事の操作などによって、学問の自由は攻撃の対象にされてきました。学問の自由の基本は、専門的な研究領域の自律性(他者から強制や命令を受けず、自分の領域を自分で決定できること)を確保する点にありますが、大学での研究や学び、知識を獲得する自由を確保してくれるものでもあります。  国が学問の自由を標的にするのは、国に益がある研究(例えば軍事研究)をさせたり、自分たちに都合の悪い研究を潰したりと、一部の研究領域をコントロールしたいからだと推察できます。一見すると、大学などの研究機関や研究者にしか関係がないように見えるかもしれませんが、一部の研究領域が優遇され、一部が削られることになると、大学での学びの選択肢が貧困になるのは言うまでもなく、社会に実装されたり、還元されたりする理論や知識にも偏りが生じてしまいます。私たち市民は、政府にコントロールされた知識へとアクセスが制限されていくわけです。  これは、考えるための素材や方法が、国のコントロールのもとで制限されるという事態でもあります。学問の自由の制限は、考える自由を制限することにつながっているのです。いや、それどころか、「考えること」が表現や言論、宗教といった他の人間的活動にも根本的に影響することを考慮するなら、学問の自由の制限は、言論の自由や信仰の自由といった人間の自由の制限にさえむすびつくことでしょう。  ちょうど『現代思想』が「学問の危機――制度と現場から考える」という特集を組んでいました。学問の自由が脅かされる現状について、特に大学を「現場」として報告する論考が多かった一方で、阿部幸大+永井玲衣「大学の内と外から」や田代伶奈「『こうなってますから』に抗する練習。——アカデミアの外で哲学する意味を考える」、佐久間大輔「『わからない』の魅力、『わかりにくい』のいらだち」など、大学やアカデミアの「外」を問題にし、その重要性を伝える論考もありました。学問の自由を守り、危機を回避するには、研究者や大学関係者が重要になる気がしてしまいますが、実はそれ「以外」の人たちの活動や運動も鍵になります。  その一つに、永井さんや田代さんがあげている「哲学対話」があります。哲学対話は、哲学実践の一つで、学問的な知識を前提することなく、特定のテーマについて、参加者が自由に意見を出し合い、考えを深めていく活動です。僕が仲間とやっているお店Findでも定期的に開催していて、例えば「平和とは何か?」とか「美しさとは何か?」とかをテーマにしてきました。哲学対話は参加者に条件を課しません。研究者でも、市民でも、誰でも参加できます。学問的な知識を前提することもないので、知について対等な立場で対話をすることになります。また、哲学対話では、自分の考えをまとめたり、誰かに伝えたりするだけでなく、他の参加者の声を否定せずに聴くことが求められるので、多様な意見や考え方があることを実感できます。  哲学対話において考えを深めるとは、そのテーマについて、自分の考えが唯一のものではないことを知ったり、他の人とは何が違うのか、違った考えであるなら、その原因は何なのかを考えたり、そこから自分の考えを問い直したりすることだと言えます。この点で、哲学対話という実践には、知識あるいは考えることを制限したり、コントロール・統制したりすることに抗う力を期待できます。あるいは、学問の自由が侵害されている事態や考える自由が制限されている事態に気づいたり、そういった事態がおかしいと考えたりするきっかけにもなるでしょう。アクションを起こすには、問題に気づき、それに抗うことが必要になりますが、学問の自由、あるいは考える自由の制限の問題に対して、まさに哲学対話は、それらを可能にしてくれます。  哲学対話を市民に薦め、いわば「市民哲学者」を作っていくのは、哲学の社会的責任の一つと言っても過言ではありません。「市民科学者」になるには、陰謀論に巻き込まれないことや、疑似科学に加担しないことといった、知識を必要とするいくぶんか高いハードルが求められるのに対して、市民哲学者になるには、自分の考えを唯一正しいものとしない、相手の話をちゃんと聴くといった、最低限のモラルや規範を守れれば十分です(今の社会ではこのルールを守れる人もそれほど多くありませんが)。哲学は、よく誤解されるように一部の人にしかできない特別な営みなんかではありません。誰もが当たり前に行うことができる営みです。  こういうことを言うと、哲学が「特別」なものだと思っている人たちから抗議を受けるかもしれません。佐々木晃也「哲学の責務、あるいは哲学者の社会的役割について」(『現代思想』)では、C・ ヴォレールが引かれ、哲学対話の実践者が、査読論文もなく、伝統的な哲学の訓練も受けておらず、初等的な哲学知識を持たない者であるとして、「恥知らず」の烙印が押されていました。けれども、今の社会の中で哲学に求められるのは、そうした人たちを、井の中の蛙のように偏狭な態度で非難するのではなく、広い視野のもとで増やしていくことではないでしょうか? 社会における自由を守るためには、アカデミアの哲学者以上に、「恥を知らない者たち」の活動こそが重要になるのですから。(たかぎ・しゅん=北九州市立大学准教授・哲学・美学・ジェンダー)